『第137話』戦の結末:黒歯常之の苦悩

 白村江にて倭水軍が敗戦し、その数日後。
 百済軍の最後の城、周留城にて、黒歯常之は怒りに震えていた。

「陛下は、我らさえ捨てて逃げたのか……!」

 黒歯常之の前には、百済の伝令兵がひざまずいている。

 彼らは白村江の海戦に同行し、豊璋の船に乗っていた。
 そして、豊璋に見捨てられた。

 激怒した秦の剣幕に恐れおののき、もはやこの戦場にはいられないと悟り、彼ら百済兵は必死に戦場から脱出した。

 倭の水軍とともに逃げるという選択肢もあったが、それはしなかった。

 いくら倭軍が温厚で誠実な味方といえど、限度がある。
 自分の国の姫君が、味方であったはずの百済の将に人質にされ、肝心の百済王は戦場から逃げる始末だったのだ。

 倭の人間は、百済軍の惰弱さ、不誠実さに、怒り心頭だ。
 現に、あの秦が、鬼のごとく激怒していたのだ。

 それゆえ百済兵たちに、倭兵とともに逃げる勇気はなかった。

「本当に陛下は、たった一人で逃げたのか」

 黒歯常之の問いに、百済兵はうなずいた。

「その通り、です」

 事実をそのまま言うしかなかった。
 彼ら兵士としても信じたくないことだが、見たことをありのまま伝える他ない。

「……ご苦労だった。下がれ」

 黒歯常之はイスに座り、背もたれに体を預けた。
 側近すらも陣幕から追い出して、黒歯常之は一人で考え込む。

 多くの戦で活躍し、どんな困難な状況も打破してきたが、こればかりは心が折れた。

 百済王であるはずの豊璋は行方知れず。
 総大将であった鬼室福信は不当な処刑を受け、他の将は唐と新羅におびえている。

 唯一の希望だったのが、倭軍だった。

 彼らは頼りになる味方だった。
 異国の軍隊ではあるが、戦場に生きる黒歯常之にとっては、軟弱で不実な百済の将よりも、倭軍ははるかに信頼に足る者たちだった。

 しかし、その倭軍も唐軍の前に敗れた。

 倭軍の奮戦ぶりは伝令から聞き及んでいた。
 一時は唐軍を川岸に押しこみ、優勢に立っていたという。

 それでも敗北という結果は変わらない。
 もはや味方はどこにもおらず、この周留城にいる百済の将兵以外に、唐と新羅に対抗できる者はいない。

「くそっ!」

 思わず立ち上がって、イスを蹴り上げた。
 黒歯常之は苛立っていた。

 頼りなくても、臣下の操り人形であっても、豊璋は王だった。
 あれほど愚かな若者でも、行方知れずになれば百済の結束は失われる。

 王が逃げた軍など、もはや破綻している。

 その上、この城に残っているのは、保身しか考えていない百済の将や官僚ばかりだ。

 彼らは戦場で華々しく活躍できない代わりに、王に気に入られることだけを考えていた。
 自分たちの立場を保つための発言や行動ばかりで、戦場で命を賭ける勇気がない。

 すでに黒歯常之の怒りは爆発寸前だった。

「黒歯常之さま!」

 陣幕に、百済兵が飛びこんできた。
 その慌てぶりを見て、黒歯常之は何かを悟っていた。

「……どうした?」

「あ、あの劉仁軌が、使者を送ってきました!」

 その名を聞いて、黒歯常之も目を大きくした。

 劉仁軌は、今や唐軍の最高責任者である。
 死にかけの百済軍を滅ぼすだけなら、このような大物が動く必要はない。

 つまり、ただちに攻め滅ぼす気はないということが読み取れる。

「使者を通せ」

 黒歯常之の命を受け、百済兵はただちに陣幕から出ていった。

 ほどなくして、唐軍の使者が現れた。
 使者は礼服を着ており、剣も帯びず、鎧も身に着けていない。
 戦場で遣わされる使者とは思えぬ、優美な格好だった。

「百済軍の総大将、黒歯常之閣下。本日はお目通りを許してくださり、まことに感謝を申し上げます」

 使者はうやうやしく一礼した。

「うむ」

 黒歯常之は小さくうなずいた。
 使者は穏やかな表情であったが、黒歯常之の威圧感を前にして、思わず背筋が冷えた。

「劉仁軌どのの使者と聞いたが、何の用だ?」

 黒歯常之に問われ、使者は書状を差し出した。

「我が唐帝国の将軍、劉仁軌さまからの便りにございます」

「ほう」

 黒歯常之は書状を受け取ると、その内容を無言で確認する。
 そして、読み終えた黒歯常之が、使者に目を向けた。

 射貫くような視線を受け、使者は背筋を正したが、気後れせず黒歯常之の目を見つめた。

「この書状に記されている内容は、まことか」

 黒歯常之の言葉に、使者はうなずいた。

「まことでございます。その書状に記されている文言はすべて、劉仁軌さまの直筆でございます。よってそれは、劉仁軌さまご本人の本意と受け取っていただければ幸いです」

「本意、か」

 黒歯常之は書状に再び目を落とし、それから使者を見た。

「いずれ、返事をしよう」

 使者は深々と頭を下げた。
 使者を帰らせた後、黒歯常之は書状の文章を目で追った。

「降伏を勧める、か……」

 やれやれ、と首を振った。

 劉仁軌が送ってきたのは、降伏勧告の書状だった。
 百済軍は虫の息だが、彼らが立て籠もっているのは、周留城という天下の堅城だ。

 もしも残る百済兵が死に物狂いで抵抗すれば、唐軍も、新羅軍も、少なくない損害を受けてしまう。

 そのため、劉仁軌は降伏を勧めてきた。
 どこまでもつけ入る隙が無い、と黒歯常之は思った。

 もしも唐軍が力づくで攻撃を仕掛ければ、百済軍にもわずかな希望があった。
 残る百済騎兵で特攻を行い、唐の総大将である劉仁軌を討つ。

 そういった作戦を行うこともできるのだ。

 しかし劉仁軌は、死にかけの百済軍にも油断していない。
 最後の最後まで気を抜かない姿勢は、敵ながらあっぱれだ。

「まったく……執得や承丹などとは、大違いだ」

 黒歯常之を苛立たせるのは、味方であるはずの百済人ばかりだ。
 そう辟易している彼だが、彼には百済の民を、守る責務がある。

 一度は部下や他の将の説得に応じて、唐軍に投降してしまった。
 どれほど味方が無能な愚か者ばかりでも、彼は自分に対して甘い評価を下すことはない。

 自分も一度は国を捨てた手前、他人をどうこうするよりも、自分でどうにかしようと考えることが多くなった。

 たしかにあの時、自分を含めた将兵の命は、投降したことで助かった。
 蘇定方は百済の諸将を丁重に扱い、対新羅の有効な戦力として扱った。
 ただの善意ではないが、そこには一定の尊厳があった。

 だが、ひとたび視点を変えれば、さらにおぞましい現実が見えた。

 百済軍が投降したことで、各地で唐軍が略奪や虐殺などを働いたのだ。
 唐軍といえど一枚岩ではなく、軍紀を厳しく守る隊もいれば、まるで山賊のように百済の村々を襲う隊もあった。

 それらの隊が通った後の村は、言葉では言い表せぬほどむごい有り様だった。
 死体や臓物がそこかしこに散らばり、井戸の中にも何十人もの死体が放り込まれていた。

 若き鬼才として軍で頭角を現し、これまで挫折とは無縁だった黒歯常之が、この時初めて、己が失敗と挫折を突きつけられた。

 現実を知らない自分が武器を捨てたせいで、無辜の民が殺された。

 そして黒歯常之は、二度とこんなことは繰り返さないと誓った。

 民を見捨てることは絶対にしない。
 俺は諦めることなく戦い続け、民を守り切ってやる。
 たとえ他の将から煙たがられても、兵たちから恐れられても、構わない。

 平和を勝ち取るためなら、なんでも良い。

 それこそが黒歯常之の覚悟であり、確固とした行動理念であった。
 だが、たった一つだけ、例外があった。

「博麻……お前も、海の藻屑と消えたのか」

 黒歯常之は将としての責務を果たすことを、唯一の行動理念としてきた。
 しかし博麻という男は、黒歯常之にとって初めて気兼ねなく言葉を交わせる人間だった。

 初めに会った時は、博麻を殺人犯として砦の地下牢に捕らえた時だ。
 博麻は恐いもの知らずで、堂々たる態度に強い興味を抱いた。

 新羅兵に対する容赦のなさも、はたから見ていた自分も胸がすく想いだった。

 任存城の戦いでは、博麻の初陣を見た。
 二本の手斧を持って暴れる姿は凄まじく、味方である自分すらも背筋に汗をかくほどだった。
 また、返り血で体が赤く染まってくたびれた姿は、ある意味面白かった。

 そして、その日の夜に博麻の悩みを探った時は、自分がこれまで抱えていた苦悩や決意も、同時に吐き出すことができた。
 投降してしまった時の心境を素直に吐露できたのも、博麻がただの一兵士だという理由だけではなく、彼が不思議と話しやすい男だったからだ。

 熊津城での戦いでは、博麻とラジンの活躍によって、自分の部隊はほとんど撤退できた。
 博麻が己の命を顧みずにしんがりを務めていなければ、黒歯常之も、彼の部下たちも白江に次々と追いやられていたことだろう。

 加林城でともに鍛えて唐軍を追い散らした日々は、最も充実した日々だった。
 百済軍の上層部と距離を置いて、博麻たち倭軍とともに敵を倒し続けることは、黒歯常之にとっても思い煩いのない環境であった。
 めきめきと武を磨いていく博麻と、戦術を覚えていく薩夜麻を見ていると、こちらもうかうかしていられないと思い、さらに自己鍛錬に励むことができた。

 あの日々に戻ることができるならどれほど良いだろう。
 あのまま唐軍と新羅軍を打ち倒せたら、どんなに良いことだっただろう。

 しかし、もうそうなることはない。

 倭軍は滅んだ。
 伝令の報告では、筑紫隊は劉仁軌の軍船に特攻をしかけ、一隻残らず全滅したとのことだ。

 黒歯常之に残されたものは何もない。
 あとは己の身しかない。

 ならば己の身を投げうってでも、一人でも多くの百済の民を救うのみ。

「黒歯常之さま!」

 次は側近の一人が、陣幕に飛びこんできた。

「どうした。今度はなんだ」

 黒歯常之は気だるげに応えた。
 戦況は最悪なのだ。
 今さら悪い知らせが飛びこんできても、何も驚くことはない。

 側近の報せを聞くまでは、そう思っていた。

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