第25話『嫉妬』

「僕も、唐の計画を暴いてから逃げる作戦に、賛成したい、です……」

 この一言に、博麻や薩夜麻はもちろん、氷老も目を白黒させた。

「博麻さん、僕も、」

「なっ、弓削! それだけは駄目だ! 危険すぎる!」

 弓削が言い切る前に、氷老が話に割って入った。

「お前はこんな危ない企みに関わってはならん! 考えなおして、こっちに来るんだ!」

「ひ、氷老様」

 凄まじい剣幕で迫る氷老に、弓削はたじろいだ。

「まあ、少し落ち着きなさい。話くらい聞いても良いんじゃない?」

 老猿は弓削を抱きしめたまま、氷老から一歩距離を取った。

「き、貴様……何をしているのかわかっているのか!」

 弓削から引き離され、氷老は逆上する。

「何を、って。一人の青少年の意見を訊きましょうって、そう思っているだけだけど?」

「貴様のような盗人の端女が何を言うか! そうして弓削をたぶらかすというのなら、俺がこの手で……!」

 氷老が短剣を構え、つかつかと老猿のもとに歩み寄っていく。

 完全に我を忘れてしまった氷老の行く手を、博麻がさえぎった。

「そこをどけ! 博麻!」

 脅しか、本気か、氷老は博麻を前にしてもためらわず、そのまま短剣を振り上げた。

 そこで博麻は氷老の手首をつかみ、力任せにねじりあげた。

 並外れた博麻の握力により、氷老の手首が悲鳴を上げる。

「ぐぅうっ……こ、のっ……」

「あんたの言い分は聞く。だが、刃物はやめておけ」

 博麻はさらに力をこめた。

 ついに氷老の手から短剣が落ちた。

 博麻は短剣を蹴って、遠くへ転がした。
 そこで氷老の手を離し、弓削と老猿をかばうような位置に移動した。

 氷老は痛む手首を押さえながら、よろよろと立ち上がる。

「氷老殿、弓削はもう立派な大人だ。彼の身を案じるのはわかるが、彼自身が下した決断を尊重してみるのはどうか」

 博麻の意見に、氷老は厳しい目つきで返した。

 氷老からすれば、博麻も、老猿も、弓削に危険思想を与える悪人に見えるだろう。

 自分が知っている弓削ならば、こんなにも危ない作戦に乗るはずがないと思っていたのに、当の弓削はその作戦に賛成の立場をとってしまった。

 氷老にとっては衝撃であり、決して見過ごせぬ悪い変化だと考えた。

「弓削、考え直すんだ。唐が倭国を狙っている確証なんてない。猿の盗賊たちの手を借りて長安から脱出できるなんて夢物語だ。ありもしない企みを探って、危険な逃亡劇に手を貸して、命を危険にさらすなど馬鹿げている。どれもこれも、間違っている考えだ」

 強い言葉や力づくの説得は諦めて、氷老は考えうる限りの言葉を尽くした。

 博麻と老猿の考えは間違っており、彼らが考え付いた作戦はどれも穴だらけで危険なものなのだと、丁寧に説得を試みた。

 弓削は氷老の言葉にうなずいたり、その都度、深く悩んだ。
 その間、博麻も老猿も口を挟まなかった。

 弓削も氷老や博麻に答えを求めず、自分の頭で二つの意見の良し悪しをぶつけて、やっと結論を出した。

「氷老様、僕は考えを変えません。僕は、恩赦を得て帰るよりも、自分の意志で唐の企みを暴いて、ここから逃げ出そうと思います。失敗して死ぬことはもちろん怖いですが、それでも、僕はこちらの道の方が後悔しないと思いました」

 それを聞いて、氷老はうなだれた。

 膝から力が抜けて、机に手をついてなんとか立っている。
 うつむく氷老の視線は、博麻の方を向いていた。

 恨めしい。
 その一言が凝縮されたような、憎悪の目つきだ。

「お前はいつもそうだ」

 氷老の一言に、博麻は首をかしげた。

「どういう意味だ? 氷老殿」

 その言葉の意図を問う。

「お前の生き方だ。自分一人であれもこれもと動いて、その上で他人を救おうとする。その生き様が、誰も彼も引き込んでしまう。そんなお前が、俺は昔から不愉快でたまらない」

「俺の生き方が、不愉快だと?」

「ああ、そうだ」

 吊り上がり、蛇のごとく博麻を睨む氷老の目の奥には、どこか悲しい光があった。

 以前、氷老は薩夜麻から、博麻がどんな男で、どんな生き方を送ってきたのか聞いた。

 初めは元兵士たちを、心の底から嫌っているわけではなかった。

 倭国が唐帝国に戦を仕掛けたことは不満に感じていたが、戦場に送られた兵士を憎んでいるわけではなかった。
 むしろ朝廷の命令に従った博麻たちに、同情の念すら抱いていた。

 しかし、薩夜麻や土師から、博麻がどんな男なのか聞けば聞くほど、氷老の心には暗い嫉妬が沸き上がった。

 氷老の生い立ちに、自分の力で他人を助けて感謝されるということは一度もなかった。

 己の力を認めさせるために勉学に励み、仕事をこなし、尊敬と信用を勝ち取った。

 だが彼は、自分の生き様で『信頼』を得たことがない。
 混じりけのない友情や愛情で、他人と結ばれたことがない。

「黒常殿も、お前のことをことさらに贔屓して、高く買っている」

「あの黒常が、俺を贔屓しているだと?」

「お前に課している仕事はどれも過酷だったが、お前は文句ひとつ言わずにこなしていた。苛烈な命令に反して、黒常殿はお前のことを高く評価し、俺の前でもそのことを口にしていた。学もなければ実績もないお前を、あの人は一番の脅威と見ていた」

 氷老は他の倭人と違って、黒常から多くの事務仕事を振られ、彼に忠実な部下として利益を上げてきた。

 ゆえに自然と黒常と接する機会が多く、黒常が抱いている博麻の評価も、たびたび耳にしていた。

「お前のことが心底嫌いだ。何もないお前が他人から慕われ、敵にも認められ、その上で大それたことをしでかそうとしている。そして、それを助ける仲間が何人も増えていく。お前がいるせいで、俺は、他人の言いなりなっている俺は、どこまでもみじめになる」

 氷老の目は血走り、涙すらも浮かんでいた。

 これこそが氷老がこれまで抱いていた、博麻に対する態度の根拠だった。

 見下す想いなど一切なかった。
 ただただ博麻に憧れ、嫉妬し、自己嫌悪をふくらませていたのだ。

「お前が裏でやっていたことは、すべて黒常殿に伝える。この場で私を殺したいなら殺せ。こうなったからには、道連れでも構わない」

 氷老は背を向け、部屋から出ようとした。

 本気で博麻や老猿を蹴落とそうとは思っていないのだろう。

 ただ、投げやりになっているのだ。
 ここで博麻たちの手で、口封じのために殺されるのならそれも本望だと、氷老は考えている。

 弓削が博麻の考えについたことで、氷老はどこか大事な部分が壊れてしまったらしい。

 それが彼の心に残された、最後の砦だったのだろう。

 だが、博麻は彼を力づくで止めようとはせず「わかったぞ」と言った。

 わかったぞ、という一言に、氷老の足が止まる。

「……何のことだ? 何がわかった、だと?」

「氷老、あんたが子どもの頃に起きたことだよ。あんたの兄貴が、河で溺れかけていたあんたを助けようとしたらしいな。あんたは助かったが、代わりに兄貴が亡くなったと聞いた」

「弓削、お前……兄上のことを、こんなやつに……」

「こいつを責めないでくれ。あんたが俺にとる態度があまりに異常だから、それを心配した弓削が俺に色々と話してくれたからな」

 それから博麻は話を戻した。

「さて、話を戻すが、俺はちょっとおかしいと思ったんだ」

「なに?」

「あんたは俺のやり方や生き方を、嫌悪ではなく、嫉妬していたんだ。そして嫌悪の矛先は、俺ではなくあんた自身に向けていた。そして嫉妬は、力不足の自分を恥じる感情だ」

 氷老は黙ったままだ。表情に、苦々しいものが現れていく。

「だからつまり……もし大間違いだったら申し訳ないんだが……あんた、兄貴を助けようとしたんじゃないのか?

 その瞬間、氷老の目が見開かれる。

 信じられない、という表情だ。

「当たりのようだな」

「なぜ、わかった?」

 氷老の問いに、博麻は頭をかきながら答えた。

「やっぱりそうか。いや、なんとなく、そうかもしれないと思ったんだ」

「俺は誰にも、話していない。馬鹿な、あり得ない」

「そんな驚くことじゃないだろう……言っておくが、全部が勘頼りってわけじゃない。なんとなく、あんたの本性は俺に似ていた」

「お前と、俺が?」

「弓削のために、あんたは家庭で居場所がないのに戦った。弓削の母君を探すために留学を決意するところなんて、俺とよく似ている。あんたは冷淡に見えて、自分が守ると決めた人間のためにはとことん尽くしてしまう、それどころか自分の身をすり減らすほどに」

 博麻は少し照れくさそうにしながら、話を続けた。

「認めたくはないが、俺とあんたの性根が似ているよ。あんたは兄貴の死についてほとんど語らないが、実はあんたの方が、溺れた兄貴を助けようとした側で、けれども途中で力尽きて岸に戻ってしまったんじゃないのか」

 氷老は顔をうつむかせ、唇を噛んだ。

「あんたは必死に助ける側になろうとしたが、助けられなかった。親はあんたを愚図だと見下していたし、優秀な兄貴があんたを助けようとして犠牲になったと決めつけたんだ……それなら俺に対して嫌悪ではなく、嫉妬していたのもうなずける」

「黙れ、もうしゃべるな!」

 怒鳴った氷老は勢いよく振り返り、博麻の胸ぐらをつかんだ。

「お前は良い気なものだ! お前は平民のくせに豪族の若君を助け、仲間にも、家族にも愛され、故郷で待っている人間がいる! 戦場では戦友と深く友情を交わし、敵対している人間にも恐れと敬意を抱かれている! お前は、お前は、いつもいつも……!」

 次の瞬間、博麻の拳が、氷老のあごに炸裂した。

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