『第26話』半島戦争、開幕:百済の総大将、鬼室福信

 時を同じくして朝鮮半島の南西部、旧百済国、周留城(するじょう)。

 この城は百済の旧王都、泗沘城の南西に位置し、山地の中にある山城だ。
 城の北東から南に向かって、白江という河が流れている。

 白江は百済領の中で最も重要な河であり、唐の軍勢に支配されている泗沘城や熊津城にも面している。
 つまりこの河を下れば海へ、上れば泗沘城と熊津城へたどり着く。

 現在、この周留城は百済残党軍の大将、鬼室福信が守っている。
 城内の広場には複数の陣幕が建てられ、そのうちの一つに、鬼室福信と他の将が集まっていた。

「倭国の援軍は、いつになったら来てくれるのでしょうか」

 一人の将が、不安げな表情で問いかけた。
 将たちの視線は陣幕の奥に集まる。

 視線の先に、鎧を着た男が座っている。男はそれなりに大柄で、鎧も立派なものだ。
 しかし乱雑に伸びた髪を後ろで束ね、無精ひげが生え放題であるため、身だしなみを気にする余裕がない生活を送っているとわかる。

 彼が百済残党軍の大将、鬼室福信である。

「うろたえるな」

 鬼室福信は一言、そう告げた。

 それ以上、従者たちは何も言わなかったが、彼らの表情は日に日に焦燥をつのらせている。
 百済側の兵士は少なく、また、慢性的な物資不足により少しずつ飢えている。

 泗沘城が陥落し、義慈王が亡くなってから一年と三ヶ月が経った。
 民のために百済兵は立ち上がり、鬼室福信とともに粘り強く抵抗を続けてきたが、さすがに二度目の冬を越せるほどの物資は残っていない。

 そして、その焦りは鬼室福信も同じように抱いていた。

 二カ月前、鬼室福信は周留城から出陣し、白江沿いを進んで、泗沘城を総攻撃した。
 表向きは泗沘城を取り返すためであったが、本当の目的は、泗沘城にあった物資や食糧を奪うことだった。

 百済の軍は冬が越せないほど物資が枯渇しかけているが、唐も同じく、冬に向けた物資が足りていないことがわかった。

 鬼室福信はそれに目をつけた。
 唐が貯めている物資を根こそぎ奪えれば、百済軍はなんとか命をつなぎ留め、逆に泗沘城にいる唐軍は、冬の間はまったく戦えなくなる。

 倭の援軍がいつ来るのかわからないのならば、せめて泗沘城の物資を奪いたかった。

「蘇定方のじじいめ……」

 苦い顔で鬼室福信はつぶやく。

 泗沘城を守る唐の将、劉仁願も侮れない男だが、城を守るのが彼だけならば、隙を突いて物資を奪うことはできた。

 しかし計算外だったのは、蘇定方の援軍だ。
 蘇定方が守る熊津城は、泗沘城のさらに北東の奥にあり、大軍が行き交うには日にちがかかる。

 だが、劉仁願からの援軍要請を受けてから、わずか三時間で蘇定方は駆けつけた。
 援軍の数は少なかったが、精鋭の騎兵のみで戦場に現れ、劉仁願の手が回らない場所を埋めるように兵を動かし、百済軍を撃退した。

 この蘇定方の活躍により、鬼室福信の作戦は失敗に終わった。それどころか多くの兵が討ち取られ、さらに貧窮する結果となった。

 こうなると、百済軍に残された選択肢は二つだ。

 倭の助けを待つか、唐と新羅に降伏するか。
 どちらかを選ばなければならない。そして、それについて悩む猶予はほとんどない。

 決断が迫られる中、鬼室福信は表情を変えずに、悩みに悩んでいた。

 その時、陣幕の外から兵士の声が聞こえてきた。
「申し上げます! 倭からの使者をお連れしました!」

 その知らせを聞き、一同がざわめく。

「っ……入れ!」

 椅子に座っていた福信も、思わず立ち上がりそうになったが、はやる気を鎮めて、兵士に陣幕へ入るよう命じた。

 陣幕のすそを引き上げられ、そこから一人の男が入ってきた。
 男は簡易な礼服を着ていた。位は高くないが、たしかに身分のある人間だとわかる。

「お目通りを許していただき、ありがとうございます。鬼室福信閣下」

「うむ。その話し方に、その服装……そなたは百済の出身だな」

「はい。私は、泗沘城からそのまま倭まで避難した外交官の従者でございます。この度は、倭に避難された主に代わり、倭の将軍閣下から書状をお預かりしております」

「ふむ。ちなみに聞くが、そなたの主はどうなったのだ?」

「逃げる途中で新羅の兵士に怪我を負わされ、傷が癒えぬまま、倭へ逃げ延びました。その時からすでに傷が膿み、倭で治療を受けても、命をお助けすることができませんでした」

「そうか、ご苦労だった……では、その書状を見せてもらおう」

 鬼室福信が命ずると、先に福信の従者が動き、使者から書状を受け取った。

 書状が福信の手元に渡った。
 倭からの援軍を待ちわびていた鬼室福信は、すぐに書状を広げて、内容を読む。

「……行けるぞ」

 そのつぶやきに、隣の従者が「え?」と聞き返した。

「これなら、行ける。まだ、負け戦ではない……倭の軍はすでに出発している!」

 ようやく明るい報告を聞き、従者や兵士たちがわずかに色めき立った。

「それだけではない。今月中には五千の兵士が物資とともに到着し、後着隊と合わせて、二万七千の援軍がやって来るとのことだ!」

 援軍の数を聞いた途端、喜びを通り越して、ざわめきが起こる。

「二万七千人!?」

「な、なんと手厚いことよ。これなら、我らもまだまだ戦えますぞ!」

「おう! 唐と新羅に、目にもの見せてくれましょう!」

 この報せに兵士たちから歓声が巻き起こり、さらに場が明るくなる。
 疲労がたまっていた兵士たちの顔に、数カ月ぶりの笑顔が戻ってきた。

 福信は部下たちの喜ぶ姿をながめてから、再び書状に目を落とした。

 助けに来る兵士の人数もさることながら、倭が送ってくる物資の量は、一度や二度、文章を読んだだけでは信じられないほどの量だった。

 物資の内訳は、矢が十万本、糸が五百斤、綿が一千斤、布が一千端、皮が一千張、そして種籾が三千石である。

 これは単なる救援物資という次元ではない。
 唐と新羅によって荒らされた百済領に、復活の兆しをもたらすほどの量だ。

 さすがの鬼室福信も、この報せに胸が震えた。

 無事に倭国の軍が海を渡って来たら、唐と新羅に対抗できる。地の利はまだこちらにあるため、うまく連携できれば、百済国復活も夢ではない。

 さらに喜ぶべきことは、末王子の豊璋も帰国すると、書状に明記されていることだ。

 義慈王が亡くなった後、今の百済軍には王がいない。
 大将である鬼室福信は兵士たちから尊敬されているが、百済王という復興の旗印にはなれない。

 王の遠縁である扶余自進という将もいるが、彼はかなり老いており、これまで戦や政治で目立った活躍をしていない。
 たとえ彼を王座に据えても、兵士たちの士気は上がらない。

 それに、いずれ唐帝国は、別の者を百済王に据えようとしてくる。
 そうなる前に、正統な王位継承者を味方につけなければならない。

 若い頃から武を磨くことに明け暮れた福信は、自分が政治的な柱になることはできないと悟っていた。
 そのため、倭が豊璋王子の身柄を返還すると確約してくれたことが、なにより一安心だった。

 この日、通夜のように沈んでいた周留城が活気を取り戻した。

 いつ来るかわからなかった倭の援軍が、早ければ今月中にやって来る。
 ついに訪れた朗報は、絶望しかけた兵士たちの心に希望を灯した。

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