第26話『無垢』

 次の瞬間、博麻の拳が、氷老のあごに炸裂した。

「ぐはっ⁉」

 はるかに背の高い氷老が吹っ飛び、ごろごろと床に転がる。

 氷老は震える手で床をつくが、目の焦点が定まらない。

「う、ぐ……ふぐっ……か、か……」

 口の中からぼたぼたと血が流れ、床に落ちていく。

 凄まじい拳だった。
 初めて博麻の拳を知ったが、その一撃に籠められた博麻の『意志』のようなものが、どの言葉よりも、はるかに雄弁だった。

 一向に立ち上がれない氷老の胸ぐらを、博麻がつかみ上げた。

「俺とあんたが持っているものを比べるのは、この際、どうでも良いんだよ」

 博麻の目が、氷老の目を射抜く。

「他人がうらやましい? 自分がみじめだ? そんな不平不満をこぼすよりも、まずは自分が持っている大切なものを守り抜くことを考えろよ」

 怒気をあらわにして、博麻が氷老に言葉をぶつける。

「あんたは何を為したいんだ。それが見えなきゃ、たとえ俺がどれほど落ちぶれたとしても、死ぬまであんた自身はみじめなままだぞ」

「俺の、為したいもの」

「そうだ。当然、俺にもある」

 博麻はあごを動かして、薩夜麻を示した。

「仲間、家族、故郷を守ることだ。そのためなら、俺はどんなに苦しいことでも耐えられる。どんな危険なことでも、己の身を賭けることができる」

 博麻は拳を作り、氷老の胸をそっと叩いた。

「唐に忠誠を誓って生きることが、あんたの素直な希望なら、それはそれで構わない。俺のことを黒常に密告するのも、一つの正解だ。だが、もしも違うというなら、聞かせてくれ。あんたが本当に大事にしたいものや、想いを」

「俺の……本当の……」

 氷老はうつむき、唇を噛みしめた。

 自分の素直な想いを他人に話すなど、ずいぶんと遠い昔に忘れてしまったことだ。

 兄に大きく劣り、兄を救えなかった自分を、両親は叱責した。
 それどころか、お前を助けようとして兄が死んだのだと、両親は知りもせず決めつけた。

 ひたすらに勉学に励んだ自分を、同郷の幼なじみは不気味だと小馬鹿にした。

 唐に渡って職務に励んでも、唐人は自分に対して大きな一線を引き、妬み嫉みをぶつけ、隙あらば蹴落とそうとしてきた。

 誰も信用できなかった。
 誰にも打ち明けられなかった。

 だが、たった一人だけ、氷老のそばから離れなかった者がいる。

「氷老様、僕にも、大事な夢があります」

 弓削少年が、口を開いた。

 おずおずと氷老と博麻の方へ近づき、氷老のそばでしゃがみこんだ。

 彼の小さな手が、氷老の服のすそをつかむ。

「僕はあなたが笑っている姿が見たいんです。誰にも遠慮せず、心の底から楽しんでいるあなたを、僕はそばで支えたい」

 これが、弓削の無垢な想いであり、夢だった。

「僕を倭国に送った母を探すために、あなたは力を尽くしてくださりました。故郷の倭国から離れて、何年も何年も、僕なんかのために」

「それは、君が、俺にとって唯一の家族になってくれたから、君の想いに応えたくて……」

「わかっています! あなたが僕のために尽力してくださっていることも、その善意にお願いしている立場であることも、わかり切っています!」

 弓削は涙声で叫ぶ。

「けど、もう良いんです……苦しいんです……僕のために、唐人に頭を下げ続けて、やりたくもない笑顔を張りつけて、歯を食いしばっている姿を、もう見たくないんです……っ!」

 氷老はがく然とした様子で、弓削の涙を見ていた。

「いつか、あなたは言っていましたね。諦めるな、きっと母を見つけてやるから任せろと……もう母探しはやめましょうといった僕を、叱咤してくださった……」

 そして弓削は、ゆるゆると首を振った。

「違うんです。諦めたのではなく、母を探すことよりも、あなたの本当の笑顔を見ることが、一番大事な夢になったんです!」

 弓削は大粒の涙をこぼし、真っ直ぐな想いをぶつけた。

 彼は、氷老のことを最も身近で見ていた人間だ。

 どこまで氷老が優秀でも、どれほど氷老が礼儀をわきまえても、唐人は氷老を心の底から認めることはなかった。

 彼ら唐人は氷老のことを、使える人間、手駒としか考えない。

 そんな扱いを受けている氷老を、弓削は何年も間近で見続けていた。

 自分のために頭を下げ続ける人間を見るのは、どれほど苦痛か。

 氷老のみならず、その場にいた博麻たちすらも、弓削が抱えていた心苦しさを知り、重い衝撃を受けていた。

 博麻は氷老の肩に、手を置いた。

「弓削は、あんたがあんたらしく振る舞うことが嬉しいのだ。あんたはどうだ? 何を欲している? 本当に自分が求めていることが、一体何なのか深く考えてみろ」

「俺の、求めていること……」

 氷老は博麻の目を見た。

 博麻の力強い眼差しは、幼い頃に見た兄の眼差しに似ていた。

 博麻の瞳に映る自分の姿が、だんだんと、自分に似た風貌の、死んだ兄に見えた。

 自分はどうしたいのか、どうなりたいのか。

 胸の奥で塞いでいた想いを、瞳の中にいる自分の兄に、胸を張って言いたい。

「俺は、兄上と同じ夢を語っていたんだ……倭国の朝廷で偉くなって、倭の民を富ませ、大地をうるおわせて……兄弟二人で朝廷の最高の大臣となって、歴史に名を刻もう、と……」

 幼い頃に抱いた、あまりに純真無垢で、壮大な夢だった。

 だが、それこそ氷老が心の奥底で押さえ続けていた、真の夢だった。

 彼は一度、その夢を捨てようとした。

 自分の力が足りないせいで、溺れかけた兄を救えなかった。

 優秀で明るく、誰からも慕われていた兄が死んで、不出来な自分だけが生きている。

 どれだけ勉強して知識を付けても、倭国で出世しても、罪悪感から逃れられない。

 ましてや、兄とともに語り合った夢を追いかけることなど、とてもできなかった。

 兄の夢を、横取りして、独り占めしてしまうような気がしたからだ。

 ゆえに代わりの目標を、倭国ではなく、唐帝国に見いだした。

 腹違いの弟である弓削を、彼の実母の元へ送り届けるという、別の目標だ。

 二度と母の腕の中に戻れない兄に対する、贖罪の想いもあった。

 自分のことなど、夢など、自尊心など、とにかく忘れようとした。

 それらを抱くことすら、自分に対して許さなかった。

 兄の夢を横取りすることなどできない。

 弓削と彼の母を、離れ離れにしたままにすることも、できない。

 それが今の氷老を、無理やり突き動かしていたものだった。

 だが、氷老にとってその道は、偽りの道だった。

「俺だって、本当は故郷に戻りたい……兄上ができなかったことを、今度こそ俺が……!」

 自分が本当に目指したいこと、身を置きたい場所は、倭国にあった。

 兄の意志を継ぎ、倭国を、故郷を、さらに富ませ、最高の大臣になる。

 そして弓削は、そんな氷老のそばにいたいのだ。

 氷老は決心した。

 倭国を滅ぼされるわけにはいかない。兄との思い出を、両親の命を、踏みにじらせるわけにはいかない。

「弓削、海を渡った時、君の母上に合わせると誓ったこと……果たせなくても良いか?」

「もちろんです。そして、私からお願いがあります。今度はあなた様が、自分の夢をかなえるために突き進む姿を、どうかこれからも一番近くで手伝わせてくれますか」

「ありがとう、ありがとう……君はこれからも、最高の弟だ」

 氷老は膝をつき、両手で顔を覆った。

 涙をこぼす氷老を、弓削がそっと上から抱きしめた。

「嫌いだった、苦しかった。こんなに尽くしているのにさげすむ唐人も……俺を認めてくれない父と母も……そして、それを我慢して、兄上と描いた夢から目を逸らし続けていた自分も……嫌いで嫌いで仕方がなかった……自分の歩き方を、ずっと、ずっと恥じていた

 彼は張り詰めていた。
 弓削との約束のために、唐人に気に入られるために、兄への贖罪のために、ずっと彼は耐え続けていた。

 自分の本当の夢を、凍らせ続けていた。
 それが、やっと溶けた。

「ごめん、兄ちゃん……父さんと母さんに心配かけ続けて……ずっと逃げて、ごめんよお」

 本当の彼はこんなにも繊細で、無垢だったのだ。

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