『第42話』任存城防衛戦:防衛成功

 ここで殺されるために、海を渡ってきたのではない。

 そう決意を固めて立ち向かおうとした時、「放て!」という声が聞こえた。
 反射的に見上げると、左側の空から大量の矢が飛んできた。

 まずいと思って身構えたが、その矢はすべて、唐軍に着弾した。

「ちっ、黒歯常之か」

 蘇定方は近くまで迫っていたため、彼の苛立った声は博麻たちにも聞こえた。
 蘇定方が言った通り、博麻たちから見て左、つまり西側の方に黒歯常之の隊が現れていた。

「矢を放て! 蘇定方を狙え!」

 黒歯常之が命ずると、百済兵は再び矢をつがえて、放ってきた。

 さすがの蘇定方も、渋い顔をした。
 前には倭軍、横には百済軍となれば、大きな損害を受けてしまう。

「撤退だ!」

 蘇定方が叫ぶ。
 判断を下すまで、五秒もかからなかった。

 唐兵たちは蘇定方の命じるままに、撤退を開始する。

「逃がすな! 追いかけよ!」

 黒歯常之が命じると、百済兵は追跡を開始する。

 同じく阿倍も追討を命じたが、馬の少ない倭軍では速度に差があり、また百済軍も離れていたため、本気で逃げる唐軍に追いつけない。

「待てえっ!」

 ここまで来て、逃がしてなるものか。
 ラジンよりも早く、博麻は駆け出して両方の斧を抜く。

 追いかけてきた博麻を見て、最後尾の唐兵たちは追い払おうとして振り向くが、その前に博麻は間近にいた唐兵の頭を割り、武器を振り上げた者の首を切り裂く。

「……くそっ」

 しかし、博麻の猛追もここまでだった。

 追いつかれると思った数人の唐兵は、足を止めて抵抗してきたが、彼らが博麻にあっさり殺されていく光景を見るや、他の唐兵たちは必死で逃げに徹した。
 追いかける博麻が多少近づいてきても、それでも無視を貫いて、己の命を守りきった。

 どんどん遠ざかる唐軍の背中を見て、博麻は足を止め、ぜいぜいと息を吐いた。

 その直後に疲労感が襲いかかり、吐きそうになった。
 興奮、恐怖、焦燥が何度も入れ替わった中、全力で体を動かし続けた代償は凄まじい。

「おじさん!」

 ラジンが追いかけてきて、博麻の体を支えた。

「大丈夫?」

「……ああ」

「一人で行くなんて、さすがに無茶だよ」

「敵将を逃がしたくなかったんだ。将を討ち取れば、それだけ戦が早く終わる」

 そう語る博麻の目は血走っている。
 その様子を見たラジンは、彼が本気で蘇定方に追いつこうとしたのだと理解した。

 博麻はその間も荒い呼吸を繰り返した。
 顔は紅潮し、汗があごから垂れていく。

「どうだった、初めての戦は」

 後ろから声をかけられて振り向くと、馬に乗った黒歯常之がいた。
 彼の周囲には、百済騎兵がひしめいていた。

「何も。どうということはない」

 博麻はふらつきそうになる体を奮い立たせたが、黒歯常之は小さく笑った。

「無理をしなくていい。二人とも、顔を見ればわかる」

「顔?」

 ラジンが首をかしげた。

「初陣を生き残った新兵は同じ顔をするんだ。安堵と興奮が入り混じった、そんな顔だ」

 新兵と同じと言われてラジンは少々むっとしたが、博麻は「そんなものか」と返した。

 それから黒歯常之は、逃げていく蘇定方の軍を渋い顔で見ていた。
 蘇定方を追い払うことは、彼にとって誇らしいことではない。
 むしろまんまと逃げられたことが、大きな課題だったようだ。

「蘇定方はいつも、あのように戦うのか」

 博麻が問うと、黒歯常之は首をひねった。

「あのよう、とは?」

「あれほど精強な軍を率いているのに、退くときはあっさりだ」

「そうだな。だがな、それが蘇定方の強みだ」

「強み?」

「俺の経験談になるが、有利な状況で蘇定方の隊と戦っても、一向に蘇定方を追い詰めることはできなかった。そしてまた別の日になれば、気がついた時にはやつの有利な状況が作られている」

 この話を聞いた博麻は、なんとなく蘇定方の強さがわかった。

 残酷な話だが、兵士の代わりはいくらでも用意できるが、新しい将を用意することは難しい。
 千人の兵が討ち取られるよりも、大将一人が討ち取られる方が痛手だ。

 不利になれば、早々に諦める。
 これは、見ようによっては正しい判断だ。

「唐帝国は、人材の宝庫だ。使えない将なら容赦なく切り捨てられる。しかし蘇定方は三十年以上も戦場に出て、討ち取られることなく、切り捨てられることもなく、今に至っている。
 勝つべくして勝ち、負ける時はほとんど傷を負わずに生き残るのが、やつの強みだ」

 黒歯常之にそう言われ、博麻も納得してうなずいた。
 言われてみれば、蘇定方は理想的な将かもしれない。

 ただ逃げ足が速いだけの将なら、先ほど言った通りに自国に捨てられる。
 かといって己や部下の犠牲を顧みず、猪突猛進で戦う将ならば、大損害を受けてしまう。

 忌々し気に話す黒歯常之だったが、蘇定方の手腕を話す声色は少しだけ明るい。

 博麻はなるほどと思った。

 黒歯常之は宿敵とも言える蘇定方を、逃がすことなく討ち取りたかったのだろう。
 しかし一方で、蘇定方という男を少なからず認めている。

 そういう意味では百済陣営の将と同じ場所にいる時よりも、今の彼は生き生きとしている。
 自分の好きなように軍を動かし、実力を認めた敵の命を狙うほうが性に合っているらしい。

「そういえば、そっちはどうなったんだ?」

 博麻が尋ねると、黒歯常之は少し考えてから、「ああ、袁孟丁の方か」と答えた。

「俺たちは蘇定方と戦ったが、あんたは向こうの将が率いる軍と戦っていたはずだ。まさか任存城を見捨てたわけじゃないよな」

「馬鹿言え。袁孟丁はとっくに追い返した。全滅とまではいかなかったが、あれだけ派手に追い散らせば、しばらく手を出してこないだろう」

 それを聞いた博麻は、信じられないと思った。

 偵察の情報では、袁孟丁という男が率いる兵は五千人以上だった。
 兵数は蘇定方の軍よりはるかに多く、短時間で倒せるものではなかったはずだ。

 こともなく、といったように話す黒歯常之だが、博麻から見れば彼もまた異常な能力の持ち主だった。

「そんな顔するな。俺に言わせれば、人望の差というやつだ」

 黒歯常之が言った。

「人望? あんたと袁孟丁を比べて、か?」

「いや、袁孟丁と蘇定方を比べたらの話だ。袁孟丁は部下たちから好かれていない。攻めは強引で、守りも大して上手くない。
 部下に対してきつく当たり、やつの兵はよく略奪をする……そんな将の身に何か起これば、残った四、五千人など山賊みたいなものだ」

「じゃあ、討ち取ったのか」

「残念ながら逃げられた。俺と遅受信の軍で挟み撃ちしたが、やつは山道の途中で崖から転落した。それからとどめを刺そうとしたが、やつの周りには兵が多かったから、すべてを蹴散らして追い詰めることはできなかった。まあ、ある意味、逃げ足がやつの強みだろう」

 袁孟丁を逃がしたと語った時、黒歯常之は悔しそうな顔を見せず、終始小馬鹿にしたような口調だった。

 彼にとって、袁孟丁に逃げられるのと、蘇定方に逃げられるのとでは、その重さがまったく違うのだ。

「とにかく、今回は我々の勝利だ。袁孟丁は敗走し、蘇定方も倭軍に妨害されて撤退した。あとは捕虜や戦利品を処理すれば、今日のやることは終わりだ」

 黒歯常之は馬首を返し、西側へ歩き出した。

「ああ、そうだ」

 馬を止め、黒歯常之は顔だけ博麻のほうに向けた。

「新兵と同じと言ったが、明らかにお前だけ違うことがある」

「なに?」

「それだけ返り血を浴びる新兵は、そうそう見ないぞ」

 黒歯常之に言われて、博麻は自分の姿を見た。

 たしかに返り血でひどい有り様だ。
 鎧どころか内側の着物も真っ赤に染まり、顔に至っては泥なのか血なのか、よくわからないもので汚れきっている。

 ラジンにも返り血が飛んでいるが、博麻は斧で戦っていたため、臓物や脳漿なども派手に飛び散っている。

 さらに足元に目を向ければ、そこには唐兵たちの死体が転がっていた。
 四、五人どころではない。
 蘇定方を追いながら斧を振るい続けたことで、我ながら唖然とするほど、進んできた道は死屍累々だった。

「先が楽しみだ」

 黒歯常之は笑いながら、部下を引き連れて去っていった。
 その背中を見送ってから、再び死体の山へ目を向ける。

「これが戦か」

 ぼそり、と博麻はつぶやいた。

 人を殺した経験はあった。
 ウンノを襲っていた百済の賊、女を手籠めにしてから射殺した新羅兵など、彼らをいざ殺すとなった時も、心にわだかまりは生まれなかった。

 だが、今は違う。

 大地に転がる唐兵の顔は恐怖と苦悶にゆがみ、まるで博麻を恨みがましく睨みつけているようだった。
 実際にそうではなくても、博麻の目にはそう見えた。

 それほどまでに、戦場での殺しは嫌な後味だった。

 目の前に立ちふさがる唐兵に、怒りや因縁を抱いているわけではない。
 ただここに居合わせただけで、名前も当然知らず、なぜ戦場に現れたのかも知らない。
 今まで自分が殺した人間たちとは違い、立ちふさがってきたから、反射的に仕留めただけに過ぎない。

「兄貴、ラジン、大丈夫ですか?」

 ようやく薩夜麻たちが駆け寄ってきた。
 逃げる唐兵を斬り続けていく博麻と、彼を追いかけたラジンは隊からだいぶ飛び出していた。

 薩夜麻は馬から下りて、二人の身を心配してきた。

「大丈夫だ」

「うん」

 博麻とラジンはうなずいた。
 博麻は笑顔を作ろうとしたが、声が上ずらないようにするだけで精一杯だった。

「兄貴はひどい見た目ですね。どこか負傷していないのですか」

「ああ、怪我はしてない。これは全部、返り血だ」

 そう答える博麻の目は、暗くよどんでいた。
 当人は否定するだろうが、疲れて気が滅入っている証拠だった。

 付き合いが長い薩夜麻は、その異変にすぐ気づいたが、この場で深く聞くことはせず、黙って肩を叩いた。

「とにかく、二人ともご苦労様です。もう唐軍はいません。今日は私の隣で護衛の任を果たしてください」

 ひとまず休めという意味を含んだ命令に、博麻とラジンは返事した。

 博麻は薩夜麻の馬のくつわを握った。
 薩夜麻も馬に乗りなおして、部下たちの方へ振り向いた。

「みな、必死に戦ってくれたことに感謝する。もうひと踏ん張りで、休めるぞ」

 疲れた顔ながらも、筑紫隊の面々は声を上げて応えた。

 その後、倭・百済連合軍は、まだ生きている敵兵を捕縛し、亡くなった仲間たちを埋葬して弔った。

 また唐兵の死体も、できるだけ野ざらしにせず埋めた。これは弔いという観点だけではなく、疫病を少しでも予防するための処置であった。

 戦利品に関しては、今回は防衛戦であったため多くない。
 この戦いで得たものは、唐軍の陣の中に残っていた食糧、そして唐兵の死体から剥ぎ取った武具だけだ。

 こうした諸々の戦後処理がひと段落して、やっと任存城へ凱旋することになる。

 実際の戦闘は一時間程度、戦利品回収や死体の処理などの作業を入れても半日も経っていないが、兵たちの疲労の色は隠せない。
 経験が浅い倭軍は、特に疲労が顕著だった。

「二日間の移動を含めても、これだけの戦いでくたびれているようでは、先が思いやられますな」

 阿倍隊の側近が、阿倍 比羅夫にそう言った。

 後ろを振り向けば、阿倍隊に続いて、各将が率いる兵士たちがぞろぞろと歩いているが、彼らの大半は戦の熱がいまだ冷めず、目を輝かせ、上気した顔のまま、疲労を帯びた顔つきをしている。

 戦意は残っていても、体がついてきていない。
 戦いを恐れていなくても、短い時間で精魂を使い果たしてしまったような状態だ。

 しかし苦言を呈した側近とは違い、阿倍はある程度の手応えを感じていた。

「初陣でこれだけ戦えるなら充分だ。将たちは唐兵に恐れず襲いかかり、兵もそれに続いた。あとは戦っていく中で覚えていけば良い」

 阿倍はそう述べてから、顔を前に戻した。
 部下には見せなかったが、彼は薄く笑みを浮かべていた。

 なるほど、あれは一筋縄ではいかない相手だ。

 阿倍の脳裏には、自分と同じくらいの歳の、身なりの良い鎧を着た蘇定方が浮かんでいる。

 将としての在り方は、自分と大きく異なっている。
 荒々しく戦場を駆ける自分とは違い、蘇定方は部下を的確に動かし、包囲を脱して反撃に出ようとした。
 危機からすばやく逃れ、好機を逃さない、大将として理想形の男だ。

 あのまま唐軍の突撃を受けていたら、倭軍はどうなっていただろう。
 そう思うと背筋があわだったが、それと同時に、ぞくぞくとした闘志を抱いていた。

 半世紀に渡って武に生きた阿倍に、生涯最後を飾るにふさわしい敵が現れた。
 東北や北海道にいた屈強な部族も、飢えた凶暴なヒグマも、蘇定方という大陸屈指の名将の前では霞んで見える。

 次こそは、仕留める。

 人知れず阿倍は歯をむき出しにして、口角を上げた。
 それは笑うというよりも、猛獣が獲物を狙う時と同じように、歯を剥き出していた。

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