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東海林直人のゴロテマ日本史◇古代2(中国朝鮮~土師器)* 


*おかげさまで「東海林直人のゴロテマ日本史」(gooブログ)は10年にわたって好評を頂きました。多い時で一日あたり8,000 PVを頂いていました。ここに新メディア“note”に発表の場を移して「東海林直人のゴロテマ日本史」をリニューアルいたします。
*この記事「東海林直人のゴロテマ日本史」の構成について。
日本史全体を重要66大項目に分けました。その内訳は古代史14、中世史12、近世史15、近現代史25の合計66です。その各項目はそれぞれ10の小項目で構成されています。
*大項目「古代史1」を例に挙げましょう。「古代史1」は古代1から10までの10小項目に分かれています。全部で3万字の大容量です。これだけでは中身がどうなのか、100円払って見る価値があるのか不安に思うでしょう。そこで最初の1項目「旧石器時代のマンモスなどの覚え方」を、全部お見せすることにしました。
*残りの9小項目「2化石人類の覚え方~10沖縄の弥生時代の覚え方」は隠れていますが、9小項目が全部「[ゴロ句][句意][point][解説][出題例過去問]」という構成になっています。
*これは残り全体重要65大項目でも全く同じ構成です。すなわち最初の小項目だけ無料で見ることができます。ではそれぞれの大項目[古代3」とか「近世2」などに行って、そこにどんな10小項目があるか見てください。あなたに必要な項目がきっとあるでしょう。
※ 語呂合わせでテーマ史を記憶するので「ゴロテマ」です。
※ S←A←B←C←Dは重要順ランクです
※ 「note」は下線を引けないので太字を代用します(以下同じ)


◇古代11.北海道の弥生時代の覚え方◇C

[ゴロ]続々サーモン何隻か/オホーツク着く
縄文文化)(擦文文化・7世紀を境に)(オホーツク文化)

[句意]続々サーモンを積んだ何隻かがオホーツク海に着く、という句。「着く」はオホー「ツク」の念押しゴロです。句の中に「北海道」がないのですが、「オホーツク」から北海道のこととすぐわかるでしょう。

[point]
1.北海道では続縄文文化に、7世紀を境に擦文文化オホーツク文化が続いた。
[解説]
1.縄文文化が今日の日本列島全域におよんだのに対して、水稲耕作と金属器の使用という弥生文化、すなわち中国・朝鮮半島からの文化の伝播が北海道(と南西諸島)には伝わらなかった。
2.北海道では、紀元前3世紀頃から紀元後7世紀まで続縄文文化〔弥生時代から古墳時代に相当〕が続いた。
3.北海道では7世紀を境に続縄文文化に替わり、擦文文化オホーツク文化が並立した。擦文文化(7C~12-13C)は、鉄器や櫛の歯のような文様を持つ擦文土器(本土の土師器の系譜)を特色とする。オホーツク文化(7C~9C)は、北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に分布し、黒色で首部分がすぼまり胴部が丸い甕形のオホーツク式土器をともなう。これらの文化も漁労狩猟に基礎をおく文化である。

2020早稲田大・文学部2/17:「
問4 下線d弥生時代に関連して、同時代の北海道では水稲耕作を行わず狩猟採取を生業とする文化があった。これを何と呼ぶか。正しいものを1つ選べ。
 ア 女真文化 イ オホーツク文化
 ウ 擦文文化 エ アイヌ文化
 オ 続縄文文化」
_________________
(答:問4オ〇)〉

2020同志社大・全2/5:「
 日本列島では、水稲農耕は弥生時代前期に始まる。水田開発や農耕を中心とした社会が確立されていく中で、自然環境と人類との関係が土地の開発を伴うものとなった。特に、農耕に関わる儀礼や儀式がはじまるのもこの時期以降である。一方で(ス)水稲耕作に適していない環境下では、従来の生業が継続した文化もあった。農耕社会の本格化や各種の崇拝儀礼、あるいは高地性集落や環濠集落のような戦いや争いの存在を示唆するような集落の出現、墳丘を伴う埋葬の様相などから、弥生時代には階級社会が成立していたと考えられる。
【設問ス】下線部スの説明で正しい記述の番号を記入せよ。
 1.海産資源の豊富な本州島の沿岸部、九州島・四国島の海岸を中心に、縄文時代と同様の食料採取を中心とした続縄文文化が広がった。
 2.水稲耕作は東北地方北部まで達するが、北海道ではサケ・マスなど食料採取に依存する擦文文化が縄文時代に続いた。
 3.南西諸島から沖縄諸島にかけては、貝塚文化が広がり、主に貝類や魚類などの採取を中心とした生活が長く営まれた。
 4.もともと、水稲耕作は乾田に直蒔きする方式であったが、本州島を中心に、潅漑設備が整えられ、より生産性の高い湿田を伴う農耕文化に変更された。」
_________________
(答:問ス3〇 1×北海道で広がる、2×縄文時代には続縄文文化、4×乾田→湿田)〉

2018立教大・文2/11:「
問1.この地域(現在の北海道)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.7世紀頃から、雑穀栽培を伴う擦文文化や、漁労や海獣の狩猟などを中心とするオホーツク文化が広がっていった
 b.14世紀頃、津軽の十三湊を拠点とする蠣崎氏によって、本州との交流が活発になり、道南十二館とよばれる居住地が成立した
 c.17世紀に、コシャマインを中心にした大規模な蜂起が鎮庄されると、全面的に松前藩の支配下におかれることになった
 d.17~19世紀、ここから出荷されたふかのひれ、いりこ、干しアワビといった俵物が長崎貿易でオランダに輸出された
 ________________
(答:a〇 ※b×蠣崎氏の拠点は本州の十三湊ではなく蝦夷地、c×コシャマインの乱は応仁の乱のちょうど10年前の1457年、d×輸出先は清国)〉

2017早稲田大・社会:「
問3 下線部③北海道に関する記述として、適切なものはどれか1つ選べ。 
 イ 北海道には弥生文化が及ばず、貝塚文化を経て7世紀頃には擦文文化が成立した。
 ロ 室町時代には、津軽の十三湊を経由して北方の物産が畿内にもたらされるようになっていた。
 ハ 田沼意次は「赤蝦夷風説考」を参考にして間宮林蔵らを蝦夷地に派遣した。
 ニ 明治政府は、1886年に開拓使を廃止した。
 ホ 北海道旧土人保護法は北海道開発庁の設置に伴い廃止された。」
_________________
(答:問3ロ〇 ※イ×貝塚文化は沖縄など南西諸島、ハ×間宮林蔵→最上徳内、ニ×1882(明治15)年廃止、ホ×同庁1950年設置、同法は1997(平成9)年廃止)〉

2016慶応大・法:「
 他方、弥生時代になっても、北海道や南西諸島には水稲耕作が及ばず、前者においては続縄文文化、後者においては貝塚文化と呼ばれる、食料採取文化が続いた。北海道においては、7世紀以降になると、鉄器や櫛の歯のような文様を持つ土器を特色とする[ 5 ]文化が成立する。また、南西諸島における貝塚文化はグスク時代まで続いた。」
_________________
(答:5擦文○)〉

2016早稲田大・文:「
 日本列島に最初期に住み着いた旧石器人類は、おおむねヨーロッパのクロマニョン人と同種で現代人の祖型をなすものである。縄文人はその系譜を継ぐと考えられるが、長らく大陸からの影響を受けることなく、多様な自然環境のもとで狩猟採集と漁労生活をおくり、そのために物質文化と精神文化において、a縄文時代独自の文化・社会を形成することになった。
 縄文人は貝塚や集落跡を残し、縄文中期、後期には[ A ]と呼ばれる円形の石造モニュメントを構築するなど、旧石器時代とは異なる展開をみせた。本格的な農耕と牧畜を伴わないので、真の「b新石器文化」とは言えないが、c自然経済に支えられて安定的で豊かな定住生活を営んだと考えられる。未開社会の宗教生活を参考にすると、縄文時代には自然の様々な精霊や先祖霊などを崇拝していたらしく、それに関わるd儀礼や祭祀が行われた痕跡が残っている。
問1 下線aの説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
 ア 地縁・血縁的原理から構成される集団が組織された。
 イ 産地が限定される黒曜石やアスファルト、ひすい、琥珀などが交換を通じて流通した。
 ウ 優れた土器製作や漆工芸の技術が発達した。
 エ 石器製作や骨角器製作に優れた技術を発揮した。
 オ 縄文土器に施文される縄目文様は縄文文化の大きな特徴で、縄文時代の終末期には姿を消し、弥生時代には継承されなかった。」
問2 空欄Aに入る語句を漢字4字で記述しなさい。
問3 下線bの説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
 ア 磨製石器が登場した。
 イ 武器として青銅器が用いられた。
 ウ 土器製作が始まった。
 エ 植物栽培が開始された。
 オ 弓矢が発明された。
問4 下線cの説明として正しいものはどれか。2つ選べ。
 ア 主に東日本ではサケ・マスの捕獲と備蓄等にもとづき安定した経済活動を営んだ。
 イ 定住生活の痕跡は大規模集落や長期間の集団墓によって裏付けられる。
 ウ 縄文人は季節的に集中する特定の資源に依存せず、イモ類の採集に重点化した。
 エ 北海道と沖縄では豊かな自然資源に恵まれたため、その後も続縄文文化を継続できた。
 オ クリやドングリなどの堅果類を季節的に利用したが、それは西日本を中心とした。
問5 下線dの説明として正しいものはどれか。2つ選べ。
 ア 精神世界に関わる土偶は、その後も継続して古墳時代の埴輪に引き継がれた。
 イ 縄文時代の儀礼と祭祀には、呪術師やシャーマンが関与した。
 ウ 儀礼・祭祀の場で使用された土偶や土版は、縄文時代後期に西日本を中心に製作された。
 エ 弥生時代に開花する大陸由来の儀礼と祭祀は、遅くとも縄文時代後期には朝鮮半島を通じて流入していた。
 オ 縄文時代後期、晩期の大型住居は集団の儀礼、祭祀のための集会所と考えられる。」
_________________
(答:問1オ×※弥生土器にも縄目文様が施されているものがある、問2環状列石、問3イ※我が国では青銅器は祭器であり武器として使われなかった、問4ア〇イ〇、問5イ〇オ〇※ウ×土偶・土版は東日本に多い)〉

2015早稲田大・人間科学:「
問2 下線部b水稲耕作や金属などの新しい技術に関連する記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。
 ア 菜畑遺跡や板付遺跡からは、水田跡が見つかっている。
 イ 水稲耕作は、弥生中期になると北海道から沖縄に至る日本列島全域で行われるようになった。
 ウ それまでの縄文土器に比べ、薄手で赤褐色の弥生土器が使われるようになった。
 エ 金属器には青銅器と鉄器があり、青銅器は主に祭祀に用いられた。
 オ 荒神谷遺跡からは多くの青銅器が発見された。」
_________________
(答:イ× ※北海道と沖縄には、稲作は伝わらず)〉

2015早稲田大・文:「
 478年、d倭王武、宋に使者を遣わし、順帝より安東大将軍の称号を授かる。
問7 下線dの時期の記述として、誤っているものを1つ選べ。
 ア この時期にヤマト政権の勢力は地方にも広がり、吉備地方に巨大古墳が造営された。
 イ この時期には、日本列島に渡来人が定着し、須恵器生産・高度な機織り技術などをもたらした。
 ウ この時期の古墳には朝鮮製の鉄製武器、武具、馬具などがよく副葬された。
 エ この時期、北海道では擦文文化が展開していた。
 オ この時期には、大阪平野に巨大古墳群が造営された。」
_________________
(答:問7エ× ※擦文文化は7世紀以降。続縄文文化の誤り)〉

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