無個性な人間について
MBTI診断中毒である私は、先日遂に全タイプをコンプリートしてしまった。私が知る限り、自身のMBTIを公言している方々の結果はある程度統一されていて、少なくとも全種類コンプリートしました!という人を聞いたことが無い。特に、noteでは自身のMBTIの結果を踏まえて、自身の性格について書かれた記事が多く、私が持っていない確固たるアイデンティティを人々はさも当たり前かのように持っていることに嫉妬心を抱いてしまう。ですが、そこで嫉妬心が沸き上がってくるということは、私は自分が無個性な人間であることを自覚しているともいえる。
確かに、私は無個性だと思う。のめり込む程の趣味はなく、向上心や好奇心、共感能力、物事を楽しむ能力が低い。基本的に物事はどうでもよく、友人については、これまで大切に出来た試しがなく、気が付けば裏切ってきた。このような性格であるため、コミュニティで上手くやっていくのは本当に大変だ。これまで、何人かの個性を真似て作ったキャラクターで振る舞い、コミュニティに溶け込もうとしてきたが、どうしても続けることが出来なかった。やはり、どこかで化物の皮が剥がれてしまうのだ。
このような自分にも遂に将来について考えなくてはならない時期が来た。周囲からは「大事なのは自分が何をやりたいかだ。」と言われる。確かに、その気持ちは大事だが、私自身にそのよう気持ちがあるとは思えないし、そんなものは幻想だとすら思っている。きっと、「自分のやりたいこと」なんか鼻から存在していなくて、これまで刷り込まれてきた社会の風潮、つまりは世間の目を無自覚に考慮したものが、「自分のやりたいこと」となっているのだろうと思う。そのため、私は「自分が本当にやりたいこと」を考える際には、自分以外の人類全員いなくなったことを前提としている。ただし、その答えは、人類全員いなくなったら、義務やモラルに従わなくていいから、何もしなくていいや。何もしなくていいなら、生きなくてもいいし、さっさと死のう、と考えてしまう。
社会は多分、私みたいな人間を想定していないのだと思う。社会はどんな人間でも必ずどこかで、何かしらの物事に熱中でき、希望を持っていて、これからも生きていくこと前提で物事に取り組むものだと思っているような気がする。そして、私のような人間は今後も生きていくことを前提と出来ず、将来に関して考えることが出来ない。そして、皆が当たり前にもっている好奇心や好きという感情や思いやり等がない。こんな私は人間に成り切れなかった何かなのかもしれない。
太宰治の「人間失格」。私のような人間が人間失格なのかもしれない。そういえば、この本の中で、「世間とは個人じゃないか。」という言葉があった。確かに、私は一人家の中にいるときは人間を脱いで、全てから解放されて楽になれる。ただし、社会、世間、個人に踏み込むと、もう何がしたいのか、何が正しいのか分からず、それらが漂わせる常識に無意識に従ってしまう。
これを人は幼いとか、自分がないだけとか、自分のことばかり考えているからとか、人としっかり接していないからだとか言う。本当にそんなに単純なものなのか。私には分からない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?