人生に起こる出来事は全部マル!
「あの時(中学時代の進路を決めるとき)、やっぱり英語の道に進んでいたら今頃どんな人生だったのかな?」
と、たまに思うことがあります。
もっと、世界に羽ばたいてたのだろうか?
もっと、自由になってたのだろうか?
もっと、円滑に英語圏の人たちとコミュニケーションを取れていたのだろうか?
などなど。
これらの感情は、ちょっとした後悔の類いかもしれません。
しかしながら、そんな私が最近思うのは「起きる出来事・出会う人々は全部必須なんだ」ということ。
この気持ちの変化を記録に残しておこうと思います。
全部シナリオ通り
ある本を読んだ時に、こういうことが書かれていました。
この文章を読んだ時の率直な感想として、「いやいや、こんなハードモードな人生書いてませんよ」と思いました。
父親はリストラに遭うし、貧乏生活余儀なくされるし、本当は行きたかった英語の道も断念したし、病院で働き始めたら小言うるさいお局いるし・・・。
こんな人生のシナリオ書くなんてドM過ぎやしないか?なんて思ったり。
だからこの本のことは、「まあ、そんな考えもあるのかもね〜」とどこか他人事だったように思います。
伏線回収の時
上記のように、私の人生の前半はハードモードでした。
でも、最近やっとわかってきたことがあります。
それは、このハードモードの中にこそ人生のヒントが隠されていたこと。ドラマで言えば伏線のようなもの。
なぜなら、私が本当にしんどかった時に愛用していたのがサンダルウッドのお香やキャンドルで、その時、何も効能や作用など知らなかったのですが気づいたら部屋中がサンダルウッドだらけになっていました。
そして、鍼灸師さんとの何気ない会話の中で「サンダルウッドには浄化の作用があるし、今のゆりさんに必要なのかもね〜」と言われそこで初めて無意識に、そして本能的に自分がその香りを求めていたことに気づきました。
また、小さい頃に姉を亡くしたことで自分の生きることへの信頼という人間のベースの部分が揺らぎ、不足の面にフォーカスする傾向がありました。
それは、後々「自分が自分で”在ること”」という無条件に世界を信じられる土台に繋がっています。
この土台が固まってきたからこそ、相手を尊重できる自分に変化し、自分が相手より上に立とうと必死にならなくなり、ポジティブな視点を得られることができました。
こうやって、ちょっとずつ伏線を回収しながら集めていくと「起こること、出会う人は全部必須でマルっ!!!!」と心から思えるようになりました。
すると自然にすべての出来事にリスペクトでき、おしゃべりおばさんも含め出会う人々が愛おしいと感じるようになりました。
さいごに
起きている現象に意味付けしているのは、紛れもなく自分自身。そこには良いも悪いも存在しないんだろうなと思います。
周りから見たら、失敗の人生かもしれない。
でも、その失敗も全部のちのち必要だったこととわかる時が来るはず。
こう思えるようになってから、何かに挑戦することも怖くなりました。なんなら、この短い人生十分楽しんじゃおう!なんて、思ってみたり。
さてさて、私の人生に何が起きるのでしょうか♩
では、今日も読んでくださりありがとうございました。コメント、いいね励みになります。ありがとうございます♡
おやすみ〜!
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