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【禅語#3】モノを手放すきっかけに|本来無一物


こんばんは、ゆりです。


月曜日の禅語、今夜は「本来無一物ほんらいむいちもつ」です。

私は、この言葉に出会いによって
お金の使い方が変わった」と言っても過言ではありません。


日々のストレスをお買い物や、エステなどにお金を使い消費していた私。


今は、何に一番お金を使いたいかと問われると「経験」です。


では、この言葉にはどんな意味が隠されているのかということと、なぜ私がモノを購入しなくなったのかの経緯についてシェアしたいと思います。



本来無一物


私たち、人間は生まれる時何も持たずに誕生します。


まさに、本来無一物ほんらいむいちもつの状態。


そして、この世を旅立つときも何も持って行くことはできません。


これが、人間の真実。


人間は、何も持たずに生まれてくるものの、成長するにしたがい欲が芽生え、さまざまなモノを持ちたくなります。


気がつけば、家・車を持ち、身の回りには不要なモノで溢れ沢山のモノに囲まれて過ごしている状態に。


そのような生活を続けることで、それが当たり前となってしまうのです。


人間の欲は止まることを知らないので欲しいモノを1度手に入れたからといってそれで満足することは無いのです。


手に入れたモノは色褪せてしまい、またすぐに違うモノが欲しくなってしまう。


それに加えて、1度手にしたモノを次は手放したくないと思ってしまう。


失うことがこわくなってしまうのです。


今一度、この言葉を頭の中に思い浮かべてみると、どういったことが感じられるでしょうか?


命があるだけで、ありがたい。
全て失ったとしても、モノは再び手に入れればいいだけのこと。
命さえあれば、全てやり直せること。


この言葉をまとめると、いろんなことを手放すことに躊躇せず、執着すべきモノは1つも無いということなんですね。


禅語とわたし


この言葉と出会い給料が入ったとしても、
ブランド物を買い漁っている内は自分を満たせる時は来ないんだろうと気づかされました。


ブランドを買う行為自体が悪いとは思いませんし、今でもブランド物への憧れはあります。


しかし、それらを持っていたとしてもあの世には持っていけないのです。


必死こいて稼いだお金は一瞬の快楽へ消費されて行くだけ。


それだったら、いろんな美しい景色を見て綺麗な思い出と共に死にたい。


もし、それらを共有できるパートナーが現れたらそれに越したことは無いですが、そうじゃないとしても経験にお金を使っていきたいと思うようになりました。


海外に来て、さらにミニマリスト化が進んだ私はスーツケース1個分まで荷物が減りました。


もっと身軽でいたい、もっと軽やかに生きたいのが次の目標です。


さいごに


この禅語をきっかけに、私のお金の使い方に対する価値観は大きく変わりました。


生まれてきた時のように、あの世にも何も持って行くことはできない。


じゃあ、何を持って死にたいか?
(少しヘビーな問いですみません)


私は素敵な人たちとの思い出と、綺麗な景色を目に焼き付けて死にたいです。


欲を言えば、美味しいご飯を食べた記憶も(笑)


ということで、今夜の禅語は本来無一物ほんらいむいちもつでした。


皆さんがこの禅語によって、さらに人生に豊かさを感じてもらうきっかけになれれば嬉しいです。


今日も読んでくださりありがとうございました。
おやすみなさ〜い。



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