『迷子になっているのは誰だ』

伊能忠敬モチーフなのに本人が一瞬も出演しない映画を観て感動をしたせいでこのタイトルなのだけれど、迷子になったこと、ある??

私はずっと道をなぞるのが好きだったしなぞる機会も多かったからだと思うんだけど女性性のわりには地図を読むタイプ。あっ!!でも最近の3Dマップとか音声ガイドはちょっと苦手で、土地勘がない場所だと読み方がまるで分からないことがある。動かない音もない2D地図への信用度が高すぎることの弊害とか感覚としての老害的なことで、いつまで経っても最新の高性能な地図は残念上手に使えない。(遅刻の理由に「ごめんなさい!迷っちゃって...」を使うことは適宜あります)

小さい頃から高校生ぐらいまで何度もみていた夢の話。たぶん4歳ぐらいから私は日常で自家用車で出掛ける数十分前に運転手の母親が車をアイドリングしておいている車中にひとりで出発を待つことが多くあったんだけど、全く関係がないタイミングでベッドですやすやと眠っている夢の中では勝手にギアがドライブに入って車が走り出してしまってどういうわけか運転を見様見真似でしなきゃいけなくなる、、、っていう、こうやって言葉にするとどうともないストーリーなのだが幼少期にはクソ悪夢。でも、いつものその悪夢の中の道程はだいたいがスタートから途中まで「あ。そうかこれは!いつものおばあちゃんちに行く道だ。」「この交差点は左に曲がって、この高架は車線をこっちに移動すれば。」ってなってどうにかこうにかそれなりに走行していたらついぞ対向車も先行車も後続車もいなくなって、夢の終わりに広大な麦畑(もしかしたらお米かもしれないけれどテクスチャーが恐らくは麦)の少し先に20階建てのビルみたいな高さのばかデカい看板が左右に建っていてその看板の向こうには、一度も行けたことがありません。何度もうなされたから中学生になる頃には明晰夢の類になっていて始まると心臓はいつもと同じようにハラハラとしたけれど、現実には扱ったことがないハンドルやブレーキや左脇のギアレバーを駆使して道路を攻略して大きな看板が左右に見えて来たら終わることを夢の中の私が理解して安堵をして、頻度もちょっとづつ少なくなってハイティーンになる時分にはちょっとした懐かしさも抱くぐらいのロードムービーみたいな存在だった。そんな悪夢も、もう上映されなくなって久しい。看板の先の景色も見ないままです。

小学生の私は母親に「1人で行けるでしょうor戻れるでしょう」って言われたらどんなに不安でもどんなに遠くからでも遠くへでも気概や昭和の環境のお陰でいつでもちゃんと行けたしちゃんと家に戻れたし、通学路とは違う道をこっそり歩いても大丈夫だった。(小児科とか歯医者とか習い事とか親戚のお家とか美容院とかね)足も靴も心もハンドルも地図もエンジンも壊れずに、ちゃんと歩けた。そのまま大人になったから、もう迷子にはならない。ほんに幸せなことだ。だからもしも路傍で小さな迷子を見掛けたら、遊びながら一緒に解決をしたい。私がいつも「わたしは迷子にならなかった!」って思えた顛末を置いてくれた大勢の知らん忘れているであろう大人たちと全く同じようにやるのは時代に於いては難しいかもじゃけれど、通報されない程度に、大切に丁度良く。


地図の話にならなくて残念だ。
もしかしたら私は今夜、迷子だ。






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