手裏剣術稽古における「楽しい」の意味

手裏剣術の稽古は難しい。そして、楽しい。
それが私が手裏剣術にのめり込んだただ一つの理由だ。
しかしこの「楽しい」はいくつもの意味があるし、ともすれば一人一人違う。
この「楽しい」の意味を考えてみようと思う。

楽しいには「満ち足りている」とか「嬉しい」とか「喜ばしい」という意味がある。そして類義語に「はしゃぐ」「ふざける」「戯れる」などがある。
ここを同義語と捉えるか類義語と捉えるか、どこに線を引くかは人それぞれだろう。
手裏剣術を武道の一環として楽しむ人はおそらくだが「出来ないことすら楽しむ」人が多い。私はこれだけは何度でも言うが「手裏剣は難しいもの」である。刺さらないことなど当たり前という世界なのだ。出来ないことを楽しむ人は刺さらなかった理由を真剣に考え、悩み、ほんの少しの解決を見出し出来ることを少しずつ増やしていく。その過程を楽しむのである。
その一方で手裏剣をホビーとして楽しむ人もいる。
そういう人は「気持ちよく刺さること」が楽しい。刺さることが楽しいのは皆同じかもしれない。しかし、大きく違うのは「刺さらなかった時の気持ちの処理」である。刺さらないから悔しい、だからこそ次は何としても刺す。そのために何が必要かと真剣に悩む人がいる一方で、ホビーとして楽しむ人は成功を求める反面、刺さらなかった結果に対する処理の仕方が違う。
ホビーと割り切りたいのに刺さらない、そのどうしようもない悔しさに直面した時に「恥ずかしい」という気持ちが出る。しかしそれを認めるのが怖い。だからこそ失敗したときに笑う。自分の失敗も他人の失敗も大声で笑う。
他人の失敗を目にして自分の失敗を重ねてしまう。だから大声で囃し立てて自分の中にある恥ずかしさを少しでもかき消そうと必死になるのである。
それでも上手く行かないときのために「手裏剣はお遊び」という言い訳を用意する。そして「真剣にやっているわけではないから!」と周囲にアピールすることで出来ない自分を正当化しようと必死になる。
この点においては手裏剣に真摯に取り組む人も「手裏剣は刺さらなくてもいい」という言葉を用意している。しかし、刺さらなくてもいいと口で言うにはまず刺せるようにならなければいけない。その矛盾を誰もが抱えているのである。

手裏剣術は結局のところ自分との闘いであり、その本質の一つは「自分をいかにコントロールすることが出来るか」である。自分自身すらコントロールすることができない人間が「手から離れて飛ぶ手裏剣」をコントロールなど出来るわけがない。
しかしこのコントロールは何度も言うように非常に難しいことである。
結局のところ、手裏剣をコントロールするためには自分自身をコントロールすることが何よりも大事になる。それはいい時ではなく悪い時のコントロールの仕方に顕著に表れる。
失敗した、恥ずかしい…だから大きな声を出してごまかそう!と考えても、自分自身はごまかせないだろう。
これは自分の内面に向き合うスポーツや武道全般にも言える。
テニスにゴルフ、ダーツ、ビリヤード、スポーツでなくても囲碁や将棋、すべて自分との闘いである。負けて叫びたい時もある。叫んだところで変わらないが、悔しさとどう向き合うかでその人の成長曲線はまるで変わる。それはすべての競技で言えることである。

私の考えでは「武道として真剣に稽古する人」も「遊びだから!」と口で言っている人も本質的には同じである。
手裏剣術をやるなら刺したときの気持ちよさを求める気持ちはよくわかるし、真剣に狙ったのに刺さらなかったり狙いを外してしまった時の「消え入りたいくらいの恥ずかしさ」もよくわかる。失敗すると自分が否定されたように感じてしまうのである。

しかし、私を含め最初から手裏剣が上手だった人間などまずいない。
今はそこそこの確立で的に刺している人も、とんでもない量の失敗を繰り返しているのである。私などは失敗をして何度も叫んだ。道場に誰もいないことを確認した上で思い切り叫んだ。成功の数の十数倍、数百倍、それ以上の失敗を繰り返している。だから、人の失敗を哂うことは絶対にしない。
手裏剣を武道として楽しもうがホビーとして楽しもうが、難しいことに変わりはない。
それであれば、笑うのは成功した時だけでいい。他人が失敗した時に笑うのは優しさではないし、そんなことをしていても自分自身が悲しくなるだけである。
手裏剣術は時に理不尽なくらいに難しいし、手裏剣は地位も名誉も忖度してくれない。刺さらない時は誰でも刺さらない。それを皆が理解した上でこの難解な武道に取り組んでいるのである。「出来ないこと」に目を向けるよりも「出来ること」を増やしていきたい。
もし「出来なかったこと」が少しでも出来るようになれば最高ではないか。
誰もが同じ苦しみに直面しているのだから誰も失敗を笑ったりはしない。
だから手裏剣術を真剣に稽古する人は「他人が出来るようになる」ことを心から喜ぶ。
手裏剣は一人でも稽古できる武道と言われているが実際に一人で上達していくことは難しい。一人で上達を目指しては途方もない時間がかかるだろう。
だからこそ、仲間が必要であり、皆が稽古仲間の上達を願うのである。そうしてこそ初めて皆で手裏剣を稽古する意味が生まれるのである。
その過程を持って「楽しい」と言いたい。

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