見出し画像

【エッセイ】統合が失調した話

統合失調症になってみた。
とはいうが、別になりたかったわけではない。
気づいたら「なっていた」ものだ。
この精神病は幻覚や妄想、会話がおかしいという症状が特徴的で、昔、精神分裂病と呼ばれていたアレだ。
もっとも精神が分裂(多重人格を想像する人が多いだろう)しているわけではなく、さらに言えば俺はどちらかというと意欲や集中力がなくなる症状(陰性症状)が強い。

俺はもともと、ものを作るのが好きな子供だったと思う。
5歳のときには好きなアニメの絵と文を書いて折本をつくっていた。
人生初の同人誌である。
このころから中学生くらいまでは人付き合いもまっとうだったような気がするが、いまいち記憶にないのでわからない。

おかしいなと思ったのは大学3年のときだった。
一人暮らしの家から出られなくなった。
正確に言えばご飯を買いにコンビニに行く以外に出られなくなった。
日差しが痛くてカーテンも開けられなかった。
なんの妖怪になったのかと今では笑えるが、その時は「コンビニには行けるしセーフ」と思っていた。

後から考えると当然ここですでにアウトである。
大学には当然行けておらず単位が足りず留年した。
留年を申し出ると両親は「少し休んでまた行けばいい」と言った。
なるほど、優しい親だったといえる。
でも、精神科や心療内科に行こうとは言わなかった。
後々になって親に聞いたところ、そう大ごととは思わなかったそうだ。
そんなわけで留年しつつもなんとか卒業した。
正直、卒論は支離滅裂なものだったと思う。
いまだに読み返してないからわからないがよく卒業できたものだ。

卒業後、ようやく職を探した。
大学に行きつつ就活をするなんてことがまるでできなかった。
この時点ですでに「普通」ではないことがお分かりだろうか。
けれどもそのときは気づかなかった。
気づかないまま就職もできず、看護学校に行くことになった。

どうしてそうなったかというと資格を取ればなんとかなると思ったからだ。母が看護師であり、かっこいいところも見ているので悪くないと思えた。……しかし俺は致命的に看護の仕事に向いてなかった。
座学はできたが実習が壊滅的だった。
家に帰って徹夜しても看護記録が書けなかった。
清拭も導尿も下手くそでやり直しばかりだった。
2年目の終わりから座学の成績も落ちた。
この時点で、自分はなんかの病気なんじゃないかと思うことがあった。

そこで病院の心療内科に行ってみた。
なにをどう説明したのか覚えてないがMRIをとったのは確かだ。
脳に問題はなく、医者は「発達障害だろう」と言った。
それっきりだった。
発達障害だからどうしろということもなかった。

そのうち夜、寝付く前に声が聞こえるようになった。
だいたいは自分の声で、過去の失敗を責めるような言葉だったような気がする。
そしてあるとき、とつぜん学校に行けなくなった。
なんとか携帯電話で学校に連絡して「行けません」とだけ伝えた。
家にも帰れずに公園で夕方までぼーっとしていたけれど、街の音がうるさかった。
それが3回くらい続いたとき、学校から親に電話があったようで迎えがきた。

それからのことはよく覚えていない。記憶があちこち抜けている。
高校の時の同級生の顔などひとつも覚えてやしないのだ。
そういうわけで、この話は前後が入れ違っている可能性がある、ご容赦を。ともかく、他の病院の精神科に予約をとったのだと思う。
数ヶ月先になると言われたらしい。

親はここでようやくヤバイと思ったようだ。
出歩かない俺を心配して外に連れ出そうとした。
外なんて行きたくなかった。
光はまぶしいし音はうるさいしとてもいられなかった。
それでも親は外に出そうとするので、俺は親のことが少し嫌いになった。
ともかく、自分は普通に人間をするのに向いてないらしいと思った。
生来的に向いてなかったのか、病気のせいで向かなくなったのかはわからない。

そんなこんなで精神科に行った。
いくつか質問をされ、そして薬をもらった。
医者はなにも言わなかったけど、俺は薬を見てわかった。
「あ、これ統合失調症の薬だ」と。
実習にこそいかなかったが精神科の座学はやっていた。
看護学校で精神病のことを学んだのは、思えばラッキーだったのかもしれない。
ああ、あれは統合失調症の症状だったんだなと答え合わせができた。
人や自分に危害を及ぼすような幻聴ではないのもよかった。
俺は早めにそれが「幻聴」であり病気のせいだということを受け入れられた。


薬を飲んでしばらくすると、楽とは言わないが光や音が痛く無くなるのを感じた。
それから半年でデイケアに行くようになり、そのうち障害者雇用で就業もできた。
フルタイムで働くことはできなかったが時短を許してくれた職場だった。
その職場も体調が悪いと休みがちになり、退職しなけばならなくなった。
まあ、これは仕方がない。
今は手帳と障害年金をもらいつつ、デイケアに行きなおしている。

もしこのまま働けなかったら、親が死んだらと考えることもある。
20代、30代の大半を病気に持ってかれた気もしている。
考え方が全体的に幼いのは病気のせいというより社会経験の少なさだろう。気晴らしがてら小説を書いてみたが、これもまた支離滅裂なものではないかと疑っている。
ともかく、俺という存在と人生は病気ありきになった。
「なにもできない」時間が多いのである。
気持ちよく体調が万全だという日がまるでない、常に低空飛行だ。
本を読むにも集中できず、歯磨きするのもお風呂に入るのもだるいという始末。
病気なので仕方がないといいつつ、仕方ないからやらないというわけにもいかない。
とかくこの病気は生きにくい。
障害とはまったく自分だけ障害物競走しているようなものだ。

統合失調症になって「自分」がわからなくなったこともある。
生まれつきの性格が自分なのか、病気になったときが本当の自分なのか、それとも薬が効いてるときが自分なのか。
しかし考えてみると、精神病のない人だって「自分」の定義は簡単にできない。
精神病とは心の病気とはいうが、その実、脳の誤作動だ。
統合失調症とは脳内伝達物質の異常である。
ストレスで高血圧になったりするのとなにも変わらない「体」の異常だ。
つまり人の精神は脳内物質やホルモンのちょっとした違いで大きく変わってしまう。
甲状腺の異常で性格が変わったという話もあるのだからそんなものだ。
だからあまり深く考えずに、ここでは一番楽な自分が「自分だ」ということにしておこう。

最後に言っておくと、俺は精神病になって嫌な思いをしたということがあまりない。
病気そのものには現在進行形で困らされているが、差別的な態度を受けたことは少ない。
だから「健常者はわかってくれない」と言うとちょっと違うなと思う。
こういうことをわかってほしいなと思うことは、ときどきある。
障害は「個性」といえるほど楽なもんではないと思う。
障害は障害だ。
その人が社会の障害と言う意味ではなく、その人が人生を生きるのに障害物、ハードルがずらりと並んでいるようなものだ。
俺だって健常者の人生がどういうものなのかさっぱりわからない。
結局、そこは伝えていくしかないのだろう。
周囲の人に恵まれたと言うのはある。
入院してたらこんなこと言えないかもなあとも思う。
でも、病気になるのはそんなに怖いことでもないなと思っている。

病気になって一番嫌だったことは、親を泣かせたことだった。
父に無理やり外に連れ出された時、父の知人に出会った。
俺は近づいて挨拶することができなかった。
帰り道で父は泣いていた。
今でも思い出すと嫌な気持ちになる。
誰が悪いというわけでもないのだけれど。

そんな今までの記憶を抱いて、今日もなんとか生きている。
なってみたかったわけではないが、なったからには楽しいほうがいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?