5月11日 つらくて仕事を休んだ日
仕事を休んで前同僚だった先生と1時間くらい電話した
あたたかい感じがして涙が出た
理由
疲れてることを含めて、寄り添ってくれた
たくさん私の中で抱えていることを分かってくれた
私の中でたくさんの複雑な気持ちがあることを受け止めてくれた
私に感謝や価値を与えてくれた
子どもの尊さを教えてくれた
ということは私にとって
感謝の気持ち。俯瞰目線で教えてくれてありがたかった。
行き場のなかった(共感してもらえなかった)気持ちに気づいてもらえた気がした。何が辛いとかではなく、ただ誰かに見てほしい、気づいてほしい、必要とされたい、そんな気持ちを少し満たしてくれた。
実は木曜日に子どもから「限界せんせー!」と何度も呼ばれたことにうるっと来た。先生は他にもいるはずなのに、なぜか私は呼ばれやすいとこっそり感じていた。なんでかわからんけど彼らに好かれちゃう、なぜだか私に魅力があるのかなぁなんて思った矢先に「限界ちゃんは上手に子供と接してると思うよ」なんて言われるから、うるっと来ちゃうし照れくさい。
過去には
目上の人との付き合いは損得勘定でしか見ることができなかった自分がいた。ギブアンドテイク、与えてもらったからには、お返ししなければならないと心を窮屈に構えていたと思う。時々何も与えることができない自分に失望したりしていた。でも、前に別の先生が言っていた「みんな限界ちゃんに頼ってほしいと思ってるよきっと、頼られるって嬉しいよ」がなんだか今は素直に聞き入れられる気がする。
それから、前の学校にいた時の生徒、うーちゃんは何度も私の名前を呼んでくれた。もちろん応える時もそうでない時もあったはずだ。辞める2日前くらいにしつこく彼女に言っていた「お仕事終わったら、遊んでください」て言おうねが、できるようになった時成長を感じた。私が言ったことちゃんと聞いていたんだね。私が辞めた後、大泣きして支援会議まで発展したことを聞いて、ちょっと嬉しかった笑。ごめんね、ありがとう。遠くからでも見守ってるよ。
結論
同僚の先生から離れたくないとかそばにいてほしいとかそう言う強い喪失感を伴う感覚は全くない。ただ、誰かの中に私がいる事実が限りなく嬉しかったのだと思う。教師をやっていて思うことは、そうやって子どもの中にも私がいること、愛を感じることができる仕事だと言うこと。結果とかスピードとかそう言うものを求められる時もあるけれど、なんだかんだ愛があって成り立つ仕事なのだろう。少しこの仕事が楽しくなっている自分もいる。
校長のことは恨めしいと思ったけどそこに気持ちを偏らせすぎていたかも知れないとも思った。「私もそうだけど、できることしかできないんだから。今は子どもに慣れることさえやってればいいのよ」と同僚の先生は言ってくれたから、自分に余計な責任を負わせない事ができそうな気がした。
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