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(短編小説) 三本足のルル


 ここから見える岬は自殺の名所で、毎年数十人が死を求めてやってくる。
だいたいみんな明るい時間に下見に来て、夕方ぐらいに一度淵に立って決意を確かめる。ひとけがなければそのまま飛び降りてしまう者もいるが、何かを見つけて踏みとどまることも少なくない。その何かは人それぞれだ。
 落ちてゆく夕日が海に溶けてく風景の美しさに心を打たれ、もう一度頑張ろうと奮起したり、ふと取り出した携帯電話の中にかけがえのない思い出を見つけて踵を返す者もいる。そしてもうひとつ踏みとどまるきっかけになるのが、岬のそばにある小さな看板だ。
『猫と一緒に安らぎのひとときを 喫茶ルル』
 看板には矢印が付いていて、その方向に振り向くと、岬を見渡せる場所に茶色い三角屋根の喫茶店がある。そして窓辺で岬を見つめる猫が目に入る。
 振り向いた人間とこれまで何度も目が合った。哀愁漂う瞳。疲れきったまなざし。彼等と視線が重なったら、おれはしぶとく見つめ続け、相手の興味が死から猫に移ったと感じたら「ミャオン!」と天を仰いでひと鳴きする。
そうするとだいたい五分後に、さきほど目が合った人間が店にやってくる。
おれに会いに。
 そしてコーヒーや紅茶を注文する彼等の膝の上に飛び乗る。痩せてる奴。
太ってる奴。男。女。若者。おじさん。おばさん。年寄り。美人。そうでもない奴。様々だが、みんなおれを撫でるとなぜか涙を零す。店主で飼い主の髭のおっさんがおれがここに来た時のエピソードを話すからだ。だからおれは自殺志願者の間ではちょっと名が知れてる。
「三本足のルル」
 真っ黒に黄色い目。足が三本しかない猫。首には赤いスカーフ。最近じゃ
待ち受けにすると運が良くなるとか噂になって、カメラでパシャパシャ撮られるが、そいつらがおれの写真を待って家に帰ってくれるならまあいいやとすました顔でおとなしくしてる。だってこれがおれの仕事だから。
 寄り添い屋。
 自殺志願者にひととき寄り添い、彼等と温もりを共有する。たったそれだけで心が変わったりする。悩みや問題は様々だが、彼等全員が本当に死にたいかというと、実際はそうではなかったりする。
「解決できない辛さから逃れたい」だけで命を絶ちたいわけではないのだ。
だって本当にすぐ死にたいなら、わざわざ電車に乗って出掛けたりしない。家や近所だと家族に迷惑を掛けるからとか考えてる時点で心に余裕がある。
死んでいいのか確かめたいだけなんだ。
 猫のおれには死にたい気持ちなんてこれっぽっちもないからよく分からない。人生たいして長くないんだから出来る限り生きようぜって思うけど、何ひとつ引っかからずに飛び込んじまった奴等も目にしてきたから、ここに来てくれたってだけで嬉しい。おれを撫でてそいつらに明日が来るならお安いご用さ。少し狂った時計の針と一緒。優しい人間を元の場所に戻す。そうしたいだけだから。
 借金。受験に失敗。いじめ。リストラ。失恋。なんとなく将来に希望が見えない…。
 色々な思いを抱えてここに来る。どんなに泣いてる奴も膝の上は温かい。おれだけがそれを知ってる。今日の膝の主は専業主婦のおばさん。店の主人のおっさんに涙ながらにここに来たわけを話してる。ひとり娘に手を焼いてるってさ。反抗期からまるで人が変わったってよ。
 高校中退して、至る所にピアスを開けまくって、知らない男のうちに泊まり歩いて自分を傷つけてる。話しかけても無視され、既読にもならない。わがままも受け入れて大事に育ててきたのひどい仕打ちだって嘆いてる。
「もう疲れ果てました。このままあの子と暮らしてたら殺し合いになります。そうなる前にと思ったんです」
 おばさんはずっと啜り泣いていた。うんうん。そりゃ大変だ。親子だって全部は分かり合えないんだからしょうがないよ。よくあることさ。何もおばさんが死ぬようなことじゃない。ほんとは好きだから心配してるんだろ。
向こうはまだ子供なんだ。愛されてると気付くためには娘を一度野良にさせるしかないよ。お互いの存在を確かめ合うためにね。
 おれだって一度は死にかけて、三本足になったけど、まだ歩けるし、そう不便でもない。大切にされてると感じられない奴なんか、ただの甘ったれなんだから、放っておきゃいいんだよ。今カッコいいと思ってるものも大人になれば価値がなくなる。今だけ今だけ。勝手に直る。全然大丈夫だよ。
 ふかふかの膝の上で丸まりながらおれは思ってた。すると店主のおっさんがお決まりの話を始めた。
「ルルの飼い主もここに身を投げにきて、ルルを道連れにしようとしたんです」
 またこれか。おっさん好きだね。まあおれも好きだけどね。あんまり覚えてないけど、ここに暮らすきっかけにもなったし、こんなよもやま話で崖から飛び降りなくなるんだったら、いくらでもしちゃっていいよ。この人は初めて聞くんだし、全部ほんとのことだからさ。おっさんの低い声を聞きながら、うまくやってくれよって目を瞑って寝たふりを続けた。
 おれがここにきたのはのは五年前。飼い主だった奈津子は当時大学生で、親友に恋人を取られたショックで自殺に走った。
 自宅で何度もリストカットしたけど死にきれず、親が入院させた病院を抜け出して、おれを連れて遠いこの岬までやってきた。
 長い旅だった。真冬で、大雪が視界も進路も遮った。奈津子は車をそのまま乗り捨てると、おれを連れて歩き出した。小さいバスケットに押し込められていたおれは寒さに身を縮めた。
「ごめんね。ルル。寒いよね。少し我慢してね」
 奈津子の声も震えていた。知らない町。知らない匂い。いつもと違う様子の奈津子に、まだ子猫だったおれは恐怖を感じ、ずっと泣き続けていた。
 ミャオン、ミャオン、ミャオン、ミャオン。
「ルル。お願い。静かにして。すぐだから。すぐ終わるから。少しだけ鳴かないで」
 声に涙が混じり、言葉も途切れ途切れになっていた。だが異変を感じ取るほどおれは大きく鳴いた。
 奈津子、寒いよ。家に帰ろうよ。訴え続けたが奈津子は何も答えなかった。嗚咽とひゅうひゅう吹き付ける風の音だけ聞こえてきて、バスケットの隙間から見える世界は不気味に白く光っていた。全身が毛に覆われてたってかなわないほど冷えきって凍えそうだった。
 それから奈津子はタクシーでこの岬を目指した。事情を察した運転手が思い止まらせようと懸命に笑い話したり、人生は思い通りにならないけど思わぬ幸運もあるもんだよ…と諭していたが、奈津子は沈んだ顔で俯いたまま、
目的地を変えようとはしなかった。
 車内は暖かったのでおれは眠くなった。早く帰りたいなあと思いつつ、バスケットの中で丸まっていた。
 しばらくして車が停まった。奈津子がタクシーを降りると、再び凍てつく風が身を襲った。
 うえええ、寒っ!もう六時間近く閉じ込められていたおれは我慢出来ずに鳴いて、爪を立ててそこら中引っ掻いた。そしてさらに大きな声で訴えた。
 ミャオーン、ミャオーン、ミャオーン!
「猫が可哀想だよ。こんなに不安になってる。君がこの子を愛してるなら、守ってやる責任があるんじゃないのかい?」
 運転手が言った。奈津子はふっと立ち止まった。寒さと空腹でくらくらしてたおれはバスケットの中で暴れた。
 すると、何かの拍子で前開きの扉がぱかっと開き、おれは飛び出して走り出した。奈津子たちの「あっ!」って声が聞こえた。
 降りしきる雪の中をおれは走り続けた。肉球が冷たかったが、止まりたくなかった。だって目の前に見えたんだ。綺麗な結晶が。おれを呼んでるみたいにきらきら光っていた。それを夢中で追いかけていた時、後ろから聞こえる奈津子たちの声が叫びに変わった。
 ひゅっ、と体が浮いた。岬から落ちたのだ。でもあの結晶はまだふわふわと揺れていた。掴まえなきゃ。必死になって思いきり身を捩って両手を伸ばした直後、競りだしていた崖の出っ張りにぶつかった。着地の態勢が取れず、後ろ足をひどく打った。
 痛い。はっとした時には結晶は消えていて、闇夜に間断なく落ちてくる雪と一緒に奈津子と運転手のおれを呼ぶ声が響いていた。
 駆けつけたレスキュー隊に助けられたおれは動物病院に運ばれた。打ち付けた左足を複雑骨折していて、もう歩けないと切断することになった。
 奈津子はおれの傍らで泣きながら謝り続けた。ごめんねルル…。何度も奈津子は繰り返した。でもおれは奈津子がまだ側にいることがずっと嬉しくって、ああよかったって思ってた。きっとあの雪の結晶は奈津子の魂で、おれは掴まえられたんだって、診察台の上でホッとしてたんだ。
 しばらく通院が必要になったおれの回復を待つ間、奈津子はここに滞在してて、毎日この喫茶店に通った。そしてそこで奈津子の運命が変わった。
 十六歳年上の店主のおっさんと恋に落ちたのだ。前に付き合ってた奴とは何もかも違う、むさ苦しい男だったが、奈津子は「世界一優しい男」だと、ここ居着いて人を救う決意をした男の心意気に惚れたのだ。
 だからおれが退院しても奈津子は家に戻らず、そのままこの岬に止どまり、三本足になったおれも喫茶店を手伝うようになった。
 おっさんはおいしいコーヒーを淹れ、奈津子も接客する。同じ気持ちで訪れる人の励みになりたいと、占いの勉強なんか初めて、無料で見てやったりしてる。
 店に来るのは自殺志願者ばかりでもないが、ひとりでも多くの人がおれで癒されて帰宅してくれるなら誰だって大歓迎。温かいコーヒーを飲みながらゆったりすれば、飛び込む気なんかなくなる。だからいつしか店の名前も「ルル」って名前になった。奈津子と結婚した店主は客に言う。
「この子はきっと妻の身代わりになって、足と引き換えに妻の命を救ってくれたんです。三本足になった今もこうして岬に立つ人を呼び止めてくれています。だからいつも窓辺にいるんですよ。あの看板を目にした人が振り向いた時、この子がいたらここに来たくなるように。いわば招き猫ですね。命の
招き猫です。だから飛び込みたくなったらこの子を思い出して頂きたい。
あなたが落ちようとしたらこの子も一緒に落ちるのだと。膝のその温もりを決して忘れないで下さい」
 おっさんの話が終わると、おれの上に雨が降る。背中の指が震え出す。
 うん。いいことだ。泣けるって心が開くってことだもんな。おかわりのコーヒーなんか頼んでくれりゃ、きっとこの人家に帰るよ。困った娘との付き合い方、もう一度考えてさ。ごちそうさま、って声だってもう落ち着いてる。大丈夫だ。どうれ、ちょっくら外まで見送ってやるか。
 おばさんと店を出ると、雪がちらちら降りだした。気温はまだ低いけど、
鼻先にすこーしだけ春の匂いを嗅いだ。
「ルル、寒くないの?」
 マフラーを巻きながら歩くおばさんが言った。へっちゃらさ。おれ雪とは仲がいいんだ。今でもあの時の結晶がなんだったのかは分からない。ほんとに奈津子を救うためだったのかな。ただ、こうやって少し前向きになれた人を見送る時は、おれには雪が紙吹雪に見えるよ。
 だから叫ぶんだ。舞い散る雪の中、遠ざかる背中に向かって、元気でな!
ってさ。











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