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いいかげんで偽りのない僕のすべて ④

 
 彼女ー星野朱里と僕は去年から付き合っている。同じ陸上部のひとつ上の先輩で、僕は高跳び、彼女は短距離走の選手だった。彼女は学校のマドンナで、校内で知らぬ人がいない存在だった。容姿端麗で運動も得意。完璧といっていい人だったが、少しも気取っておらず、優しくて明るい人柄はみんなに好かれていた。何人の男子生徒が告白したか数えきれないほどで、僕もひそかに憧れていた。それが目的で陸上部に入部したわけではないが、彼女と会える時間は基本ローテンションの僕でも鼓動が一拍上がった。
 だが人気者の彼女に告白しようとは思わなかった。年上だったし、付き合うってこと自体にさして興味もなかったからだ。なにより不釣り合いだと自覚していた。眩しい太陽の彼女に比べて、僕は校庭の端で跳ぶだけの地味な蛙でしかなかったからだ。ジャンプしたって届かない高嶺の花。きらきら輝く笑顔をそっと見ているだけで満足していた。
 走ってる彼女が好きだった。いつもはにこやかな彼女の目が、スタートの合図の直前になると矢のようになり、細い足で空を弾きながら駆け出してゆく姿に見とれていた。それはなにより綺麗な風だった。だから見ているだけでいい。そう思いながら過ごしていたが、去年の六月思わぬことが起きた。
 
 インターハイの予選が終わった日だった。前日に短距離走の予選は終わったはずなのに、彼女が高跳びを見に来てくれていたのだ。僕は張り切ったが、準決勝で1メートル90が越えられずに負けてしまった。
 試合のあと、バスで学校に戻り、ミーティングしてから解散となった。
いつもなら徒歩とバスで通っているが、その日は日曜日だったので父が迎え握る来てくれることになっていた。
 帰ってゆく部活の友人や先輩らに挨拶しながら門の側で待っていると「お疲れ様」と彼女が声を掛けてきた。携帯を見ていた僕は慌ててしまって姿勢を正した。「不甲斐ない結果になってすいません」と頭を下げると、彼女は優しい笑顔で首を振った。
 ううん。頑張ったんだもの。謝らないで。そう言ったあと、僕のことが好きだと彼女は告げたのだ。
「健太郎君がいたから、部活楽しかったんだ」
 顔が真っ赤だった。にわかには信じられなかった。同じ部の誰かが仕掛けたドッキリではと疑った。そのぐらいあり得ない。ネタばらしの瞬間を待ったが、誰も現れず、彼女はうっすら目に涙を浮かべていたが、どうしていいか判らなかった。よく覚えてないが、焦ってめちゃくちゃなお礼を言った気がする。嬉しいとか、僕も同じ気持ちだったとか、そんな素直な言葉ではなかったと思う。
 だがこんなラッキー一生に一度に違いなかった。キューピッドの射ち違いでも、彼女の気の迷いでも構やしない。うわずりながら、自分も今日は先輩が見ててくれたから頑張れたんですと言った。恥ずかしいよりも、人生で初めて口にした本音に自分が驚いていた。
 そうして付き合い始まったが、彼女も僕も交際経験がなく、翌日から意識し過ぎてしまい、以前よりもっと喋れなくなった。すっごい嬉しいけどなにから始めればいいのか思い付かない。ひやかされたくなかったので、交際をみんなに黙っていたため、相談相手もいなかったからだ。
 誰もいなくなってから二人きりで帰ったりするものの、手も繋がず、ポツポツ会話しながら歩くだけ。彼女が側にいて、僕にだけ微笑んでくれてるのに、なにもできない自分がもどかしかった。別れも近いかも。予感だけをもて余していたある日、彼女に進学先を相談された。
「東京の大学に行こうかと思うんだけど、どう思う?」
 歩きながら僕ををじっと見つめた。答えを待つまなざしだった。的確な答えではなく、二人の関係をどう思っているのかを問われていた。僕は数分悩んだ。どう言えばうまく伝わるのかと不安だったからだ。
「先輩が行きたい所でいいと思いますけど、どこに行こうと僕は会いに行きますよ。先輩が待っててくれるなら」
 もっと端的に言えばいいのに、十七歳の僕にはこれが精一杯だった。不器用な思いを彼女はちゃんと受け取ってくれた。その日初めて彼女から伸ばしてきた手を強く握った。人の肌に理屈はない。徒労も思惑も一気に溶かす。二人の間にあった見えない空気の塊がぱちんと割れたのを聞いた気がした。
 
 7月の彼女の誕生日に、地元から離れた街に出掛けた。彼女のリクエストでマンタを見に水族館に行き、異国のムードの漂う公園でプレゼントを渡した。そう高くない髪留めだが彼女は喜んでくれた。帰り道に通りかかった歩道の画廊の前で「ねえ」と彼女は僕を呼び止め「見て行かない?」とポスターを指差した。ヨーロッパのどこかと思われる海を描いた絵だった。僕は芸術の知識も審美眼もないが、彼女とでなければしないことをしたかったので、寄って行くことにした。
 クリーム色の壁に覆われた館内はあまり広くはなく、直角ばかりのせいか箱の中にいるみたいだった。初めて聞く名の画家だったが、地元では有名なのか、客はぽつぽついて、年齢層は高かった。高校生の僕らは明らかに浮いていた。紛れて転がってきたビー玉みたいに「君たちは何しに来たんだ?」という視線を少なからず注がれ、学芸員にひやかしかと警戒されていた。
 こういう場での作法を知らなかったが、おふざけでははないと証明するために僕らはおとなしく鑑賞し、静かに感想を言い合った。展示された絵は二十点前後。全部風景画で海を主体にした作品が多かった。
「ねえ見て。すごく綺麗」
 彼女が足を止めたのはアドリア海を上空から描いた絵だった。横1メートル半ぐらいの鮮やかな油絵。突き出た入江に、断崖に連なる無数のオレンジの三角屋根。港に停泊している白いヨットやクルーザー。なだらかな紺碧の海がキャンパスいっぱいに広がっていた。「アドリア海の宝石」というタイトルが付いていた。
「いいわね、こんな所。一度は行ってみたい」
 彼女は黒目を輝かせ上気した目で見上げた。それは本当に素敵な青で、波の音さえ聞こえてきそうに海を目の前に感じた。
「そうだね。こんな景色が見えるなら窓を開けるだけで幸せになれそう」
「ほんと。いつかここに行くんだって思えば、元気でいられそう。希望があるんだもんって毎日自分に言い聞かせられるわ」
 
 僕らにとってその絵はある種の約束事みたいに心の特別な場所に飾られた。いつか一緒にアドリア海に行く。決して無理ではない、叶えられそうな夢を持つことで、僕らの結び付きは強く確かのものになっていった。少しずつ関係が進展し、誕生日から二週間後に彼女と寝た。二人とも初めてで始終ぎごちなかったが、彼女は感激して泣いて、僕も今まで以上の愛しさを感じた。うまく行き過ぎてて怖くなる。そう思った五日後のことだった。
 彼女は自転車で出掛けた帰り、雨上がりのマンホールの蓋にタイヤが滑り、態勢を整えられないままガードレールのない山道の崖下まで転落する事故に遭った。通行人の通報で救助され、一命は取り留めたが、彼女の左足は岩に砕かれ、切断せざるを得なかった。
 面会が許されるようになってから、僕は毎日会いに行った。最初の頃彼女は泣いてばかりいた。あまりのことに僕も言葉が見つからず、せめてもの慰めになればと花を持って行くようになった。一輪か二輪のつましい花束だったが、彼女の笑顔が少しでも戻ればと、花言葉にメッセージを必ず添えた。
 ひと月も経つと、彼女はようやく泣かなくなった。片足でのリハビリを始め、前向きに懸命に、不自由ながらも進める一歩は、月面着陸のあの一歩よりも大きな進化と希望を持っていた。僕もできる限りの付き添い、拙い言葉だったが彼女を励まし続けた。
 だが退院後、彼女はいつも車椅子に乗るようになった。両足では立てないのだから車椅子が必要だともちろん分かるが「足がない」ということ自体を隠すようになっていたのが、とても気になった。
 偶然と言っていいのか分からぬが、ほんの数十キロ先の距離に、世界でも有名な義足のスペシャリストがいる工房があるのをネットで知った。僕はひとりで工房を訪ね、サンプルの義足をいくつか見せてもらった。日常的に使えるものから競技用まで用途は様々。軽くて壊れにくいカーボン素材や、炭素繊維の強化プラスチックなどで作られていて、切断部位によっても型は数種類に分けられるものの、高性能で機能的で、努力家の彼女なら、訓練を重ねれば、また走れるようになるのではないかと思った。値段は張るが、彼女の家の資産状況なら問題ないだろうと、もらったパンフレットを渡して説明した。陸上選手だった彼女にもう一度走って欲しかったし、彼女もそう望んでいると思っていたからだ。けれど受け取った彼女は積極的にパンフレットを開こうとはしなかった。足がない事実と向き合いたくないのか「もう別に走る理由もないから」と、運動用ではなく、装飾用の、いかに本物に見えるかを重視した義足の製作に時間とお金を費やすようになった。それは彼女の家族も同じだったからだ。
 足を失った娘を哀れむ両親は、彼女を家に閉じ込めるようになった。外出はおろか学校にも行かせなくなり、休校届けを提出して誰の目にも触れさないように彼女を外界から守った。なので半年後には受験を控えていたにも関わらず、単位不足で留年になり、今年の春に僕と同学年になった。
 一緒に行こうと新学期初日に誘って校門まで来たが、みなの視線に耐えきれなくなって、そのまま車で帰ってしまい、結局一日保たずに学校を辞めてしまった。今は通信制の高校で卒業認定を取るために自宅で勉強している。
 父親が大きい会社を経営している資産家の娘の彼女は両親に溺愛されて育った。なので事故後は家をバリアフリーに全面改築し、二階への移動のためのエレベーターも設置した。家政婦がかいがいしく彼女の身の回りの世話をし、どこに行くにも母親の付き人が送迎してやる。外食は個室。買い物は通販。彼女に会える人間もごく限られていった。
 入院中よく通っていた僕はその中のひとりで、特に彼女の母親に気に入られていた。初対面の時は怪訝そうな顔をされたが、僕が行くと彼女が笑顔になるので、便宜上交際を許してくれたのだった。以来母親は会うたび数少ない僕のいいところ、背が高いだの、成績が良いなどを誉めちぎり、呼び出されて家を訪ねれば困るほどに歓待された。
 僕は彼女が可哀想だから断らずに応じるが、少しずつ気持ちが冷めていた。障がい者になったからではない。走っている時の彼女が好きだったからだ。だがその願いは不必要とされ、気持ちの行き場を失った。
 初音ちゃんに言ったことは全部「だった」が付く。「足が速い人だった」「同じ学校だった」。全て過去形で、僕は過去の彼女が好きだったのだ。彼女には彼女しか分からない苦しみがある。それも充分理解している。神は乗り越えられない試練は与えないと言うが、試練を試練と認識しなければ向き合いもしないのだ。もし彼女が義足で学校に通ってくれたら、僕はなんでもサポートするつもりでいた。ひやかしなぞどうでもいい。足がなくたって彼女は綺麗だし、優しいし、頭もいい。なにも変わってないよとみんなに言いたかった。なにより彼女にそう伝えたかった。
 けれど彼女は逃げるように学校を去ってしまい、気の毒な状況を察する友人たちも自ら交流を絶った。だから彼女はとても孤独だった。わざわざ迎えを出してまで僕を呼ぶのは僕しか話し相手がいないからだ。
 
 エレベーターを降りてすぐ右。招かれた彼女の広い部屋はあでやかな色彩に溢れていた。壁やチェスト、ベッドの脇にと飾られた花の色だった。彼女は僕がこれまで贈ってきた花のほとんどを捨てずに取っておいていた。ブリザードフラワーにしてあったり、押し花にして額縁に飾ってあったり、綺麗な状態のままアクリル樹脂で固めてガラスの瓶に詰められてあちこちに並んでる。退院直後は愛の深さに感激したが、徐々に辛くなっていった。早く捨てて欲しい。もう生きてない花を眺めては息苦しさを覚えた。
 部屋で二人きりになると彼女は途端に甘えてくる。「会いたかった」と手を伸ばして抱き付いてくる。彼女は足がこうなってから僕と繋がることを強く乞うようになった。あれだけの事故に遭ったのに、彼女の他の部分はほぼ無事であった。美しい顔もそのままで、体は擦り傷程度ですんだ。全く無傷だった部分と完全に失ってしまった片足。その妙なアンバランスが彼女自身のバランスも狂わせ、日常の細々とした成果を排除し、努力しなくても得られる快楽に頼るようになってしまったのだ。おいしいものを食べる。綺麗な服を着る。性交もその代表だった。
 僕は若くて健康で彼女が好きだから、足の有無など関係なく反応する。けれど彼女は決して服を全部脱いではくれず、僕の上に跨がる。少しでもスカートを捲ろうとすれば顔を歪めて僕の手を掴む。ごめんと目で告げ、黙って首を振る彼女に許しを求めて続け、やがて果てる。けれども僕は気持ちよさより疲労感の方がはるかに大きい。やっと終わったと思う。満たされれば彼女も落ち着くが、そこになにも残らない。
 健太郎君ありがとう。愛してるわ。そう言ってそそくさと服を直し、僕ににっこりと微笑む。でも僕は逆に憤懣と空しさが滲んでくる。補欠なのにチームが優勝して「おめでとう」と言われてる気分だ。気が滅入る。僕は彼女をまるきり裸にして、片足だろうと君は素敵なんだと言いながらめちゃくちゃに愛し合いたかった。足を見ないことが優しさとはどうしても思えず、返って彼女を愚弄しているようで嫌になる。
「また、花持ってきますから古いのは捨てて下さいよ」
 僕はシャツを被りながら言った。
「いいのよ。これが好きなの。でも花をくれるのは嬉しいわ」
「じゃあ今度一緒に選びに行きませんか。北通りの花屋さん、品揃えいいですよ」
 すっと彼女から表情が消える。外に出ようと誘うといつもこうなるのだ。
僕から目線を外し、断る理由を探す。暑いから。あそこは段差があって車椅子では危ないから。言い出したらキリがない。正直げんなりするが「そうですね」と退く。そして一緒に部屋を出て、彼女の父親の使わなくなったスニーカーとお金を借り、送ってもらうのを断ってバスで帰った。
 
 日差しの当たる窓際の座席に揺られながら考えていた。どうしたら彼女をこの囚われから解放できるのか。僕にとって去年までの彼女との思い出は、既に回想録となって「楽しかった頃」と明記された遠い記憶のチャプターに納められていた。今の彼女をそこに入れようとしても型番違いのように拒絶してしまう。違う、とディスクが吐き出してしまうのだ。なにもかも彼女のせいではない。分かっているし、変わったのは僕の方なのかもしれない。だからこそもう一度出発点を見つけたかった。そのためにも、あの花の全部を捨ててしまいたかった。
 彼女は花に自分を投影し、少しでも綺麗な状態で残しておきたいと依存しているのだ。捨てたら可哀想と庇うことで、役に立たなくなったと思い込んでる自分を懸命に擁護しているのである。確かにもう足はない。くっつくことはないが、それで彼女が醜くなったわけではない。僕にとっても多少なりの準備が必要ではあったが、彼女の運命ごと受け止めようと、覚悟を決めていたのに、彼女は鏡を叩き割って破片を散らし、自らそこから動けなくさせているのだ。
 僕は君の隣を歩きたい。それが本音だった。簡単ではなくとも、長い時間が必要でも、なんでも手伝うからと。そう伝えたいのにいつも伝えられないまま家をあとにする。今日も然りだ。あんな風に抱き合うぐらいなら、昔みたいにもっと話がしたかった。アドリア海をいつかは見たいねと夢見てた頃に戻りたかった。もう一度心で繋がりたかった。
 僕は道中そうだと思い出し、道の駅近くのバス停で降り、最後のひとつだったはちみつパンを買って歩いて帰った。
 今日来たばかりの初音ちゃんをひとりで家に残し、傷つける言葉を投げ付けてしまったことをずっと気にしていた。携帯で謝ろうかとも思ったが、言い訳がましくなりそうで止めた。

 家に着いたのは五時ちょうどだった。僕らの町では五時になると音楽が鳴る。本当の題名は「新世界」らしいが、僕は音楽の授業で覚えた「遠き山に日は落ちて」がしっくりくる。壮大な曲調に合わせて山々がバーミリオンに染まる様は「新世界」より「日が落ちて」の方が合ってるからだ。。妙に神々しく響き渡るトランペットに合わせて口ずさみながら坂道を上がった。
 開け放したままの玄関には初音ちゃんのサンダルが来たときと同じ場所に並んでいた。ああいてくれたと僕は安堵した。
「ただいま」
 廊下に向かって声を掛けたが返事はなかった。靴を脱いで居間に行ったが初音ちゃんはいなかった。台所を覗くと、出前の蕎麦のせいろと器が二人分洗われてお盆の上に置いてあった。すべて投げ出して出てきてしまった身勝手さを反省した。悪いことをしてしまった。
 いるならあそこだろうと自分の部屋に向かった。東に位置する階段はもうかなり暗くなっていて、廊下は墨色に覆われていた。曇りガラスをそろりと開くと、空気清浄機は作動したままで、緑のランプが心電図のように光っていた。
「初音ちゃん?」
 小さく呼び掛けてから寝室を覗くと、初音ちゃんはモザイク柄のタオルケットにくるまって寝ていた。サイドテーブルに煙草入れのドロップ缶が置いてあり、開いた蓋の穴にロールされた紙が差してあった。僕は人差し指と中指で抜き出して、光のある窓の脇で読んだ。

『ごめんね健太郎くん
 本当に自分勝手だよね
 嫌な思いさせて本当にごめんね
 やっぱりもう一回考えてみます
 自分のやったことなら
 自分で解決しなきゃダメだよね
 健太郎くんに押し付けて最低だった
 明日帰ります
 迷惑かけてほんとにごめんね
 話を聞いてくれて嬉しかった
           はつね』
 
 手紙を読みながら胸が痛くなった。ずっと悩み続けて、意を決して僕を頼りにしてくれたのに、一度も彼女の気持ちに寄り添わなかった。前に進まない星野先輩に業を煮やしておきながら、勇気を持ってここに来た初音ちゃんのことは取り合わない。結局は自分の都合だけで救済の取捨選択をしているずるい正義感。走り書きの文字がいたたまれなかった。
 手紙を手に寝室に戻った。早起きしたせいか、今日の初音ちゃんは本当に眠っていて、深い寝息を繰り返していた。目には泣き疲れた跡があった。ベッドの傍らに腰掛けて眺めた。寝顔も中身もこの子は変わってないんだなと思った。
 僕は本当は初音ちゃんが少し苦手だった。彼女は子供の頃から無防備な考えなしの自由人で、ひとつ上の僕は世話役を任されていた。初音ちゃんは興味の引かれることを見つけると前後無視して駆け出してしまうので、怪我したり、迷子になって探し回る羽目になったりと手を焼かされてきたからだ。
本人に悪気はなく、発達系の障害があるわけでもないのに、些細なトラブルをいつも起こすのだ。その度に「どうしてちゃんと見ててくれないの」と僕が叱られた。「知らないおばあちゃんの荷物を持ってあげてたの」と、理由を聞けばとてもいい子なので僕も怒れない。しかし理不尽は常に感じていた。
 もう時効と言っていいのかは分からないが、中学生の時、ベッドで寝ていた彼女の胸を一度見てしまったことがある。庭にある楠木に登って降りられなくなった猫を助けようとした初音ちゃんは梯子から落ちて利き手の手首を骨折した。鉛筆が握れなくなった初音ちゃんの代わりに夏休みの宿題をやっていた時、なんで僕が二人分のプリントをやらなきゃならないんだとムカついて、ノートから切り離した紙を丸めてベッドに投げていた。本当にぶつけるつもりはなかったのだが、ふざけてバレーのサーブみたいに手の平でばしんと打つと、初音ちゃんの首に当たってしまった。
 おっとまずいと拾いにゆくと、仰向けに寝ていた水色のタンクトップから彼女の胸の形がはっきり浮き出ていた。魔が差して、つい捲ってしまった。
腹いせだったのだが、即座に罪悪感に包まれた。本当に一瞬ではあったが、缶詰めの桃みたいな柔らかそうな膨らみを今も思い出すことができる。気まずさと申し訳なさはずっと消えていない。だからさっき「何かしたの?」と初音ちゃんに見つめられた時は正直ドキッとした。本当は気付いてて、僕に白状させようとしているのかと怖かった。打ち明けたら怒るのか、それともショックで泣いてしまうのか。どちらも嫌だから黙っていることにした。
「ごめん」
 僕は寝顔に頭を下げた。深く深く反省している。口に入りそうな髪を直してから、はちみつパンの袋に手紙を書いてサイドテーブルに置いた。

『僕こそごめん
 初音ちゃんの気持ちをもっと考えるべきだった
 今日の夜、もう一度話し合おう
 僕はまだ帰ってほしくない』

 初音ちゃんの世話役は慣れている。過去の出来心を謝罪するつもりで手伝おうと思った。安らかな寝顔を見ていると僕も眠くなった。寝室を出てドアを閉め、勉強部屋のソファーであくびをしながら横になった。

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