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(短編小説)ルッキングフォー


 去年の秋から時が止まっている。
「もう別れよう」陽人は唐突に告げた。「お前におれは必要ないから」と。
 そんなことなかった。大好きでずっと一緒にいたかった。けれども去年私
は隣人トラブルや家族の入院でバタバタして疲弊していた。思うように陽人と会えなくなったが、そういう時こそ彼が心の拠り所だったのに、丸1日連絡を返さなかった翌日に別れを切り出された。
 私の待ってを待ってくれず、うんと年下の彼女ができた陽人は、バレンタインにその相手と結婚した。彼と別れて9ヶ月。もう着信はないのにアドレスが消せない。思い出の写真もそのまま保存してある。
 友達に励まされ、思いきってハイブランドのバックを買ってみたりと気分転換を図ったが、なんにも変わらない。心は彼が占めている。忘れられない執着心から、陽人の口癖を意識して使うようになった。
「へえ。そうなんだ」
 笑顔が好きだった。聞いてもらいたがりの私を受け止めてくれる言葉。楽しい記憶を再現したくて、ことあるごとに「へえ、そうなんだ」と真似した。そうすることで、陽人がまだ私の側にいるような錯覚に陥った。
 
 ある日、職場に別々の支社から二人出向してきた。私と同い年の神尾さんという元気な女性と、入社二年目のやや小柄な成瀬という男性。岡山支部で営業成績トップだった神尾さんは、ジョークを交えながら笑顔で挨拶をし、
みなも笑いながら拍手した。
 それに引き換え、若い成瀬はグレーのスーツに黒いリュックを背負ったまま両手をだらんと下げ「成瀬です。よろしく」とぶっきらぼうに一礼した。綺麗な頭の形をしているが、髪は不規則に跳ね上がっていた。小さな顔に大きな目も相俟って、少年マンガの主人公を思わせる風貌だったが、いざとなったら駆け出してピンチを救うような熱量は彼からは感じなかった。
 私の勤め先では、職場に新しい人が来た時は同じ課の全員でひとつのテーブルでランチをとるのが通例だった。親睦を深めるための簡易的な歓迎会。中庭に面した広い社員食堂は、大きな窓から四季折々の草木が楽しめる。
 新しい二人を加えた十三人で、食堂の奥の席を陣取ってランチを囲んだ。
女性が多いのでかしましい。最近の私は聞き役専門だ。自分の話をするのを避けている。ふとしたエピソードで思い出が甦るからだ。それが辛いので
「へえ、そうなんだ」を連発している。使ってみればなるほど、使い勝手がいい。さして興味はなくとも、黙っているよりはずっといいと、誰の話にも返していた。
 
 お喋り上手な神尾さんとはすぐ仲良くなった。同い年で独身。二人とも猫とスイーツ店巡りが好きという共通点があり、話していて楽しく、毎日ランチを共にした。明るい彼女の周りには自然と人が集まってくる。
 一方成瀬は呼ばない限りはひとりでいる。世話好きの神尾さんが声を掛ければ断らずに来て「マーケティング部の中村さんて美人ですよね」と、社内の噂話をしてる私たちの会話にポツリと参加するものの、大体無表情のままで、いつも本心が見えなかった。
 私は成瀬のような男の子は少し苦手だった。何を考えているのか分からない。人に好かれることが好きだった陽人は要領が良くて親切。レディファーストも当たり前で気が利く人。だから余計に成瀬が子供っぽく思えた。

 二ヶ月後、私と成瀬の二人で取引先に出向いた。打ち合わせが終わったあとに外に出ると、天気予報より三時間早まった雨が降り出してきた。どちらも傘を持っておらず、ちょうどお昼時だったので、通り掛かりのカフェでランチすることにした。
 成瀬は当たり前のように先に扉を開いて店内に入った。一応ドアは開いておいてくれたが、エスコート上手の陽人とは違うなと内心比べていた。
 神尾さんがいないと沈黙になりがちだった。向かい合って食事してる間も、会話より店内のBGMの方がはるかに主役だった。
「おれいつか南極に行きたいんすよ」
 成瀬は食後のコーヒーを飲みながら言った。
「南極って極寒なのに風邪引かないんですよ。寒すぎてウイルスが生存できないから。そういうのなんかよくないですか?」
 ぽかんとしてると、成瀬は薄く笑い「へえ、そうなんだって、言わなかったっすね」とコーヒーをソーサーに戻した。
「興味ないならそれでいいじゃないですか。気のない相槌より、ほんとのリアクション欲しいすよ。そうじゃないと話できないですよ」
 見破られていた。恥ずかしさに俯いた。いたたまれず、それから何も話せなくなった。とっくについえた恋愛。自分が情けなかった。二度と会えない陽人を近くに感じたくて、上辺だけの対応をしていたことが。今日まで近くにいる人達にずっと無礼な振る舞いをしていたと、今気が付いた。
 無言のままランチを終えて会計をした。店を出る前もついドアを開いてくれるのを待ってしまっていた。
「おれレディファーストしませんよ。ドアを開けて先に行かせるって、危険がないかどうか女性に確かめさせる行為なんすよ」
 びっくりして私は口をあんぐりさせた。
「ほんと?」
「ほんとですよ。だってその先に殺人鬼がいたら女性が先に刺されるんですから。男のずるい手段ですから騙されちゃだめですよ」
 なんだろう。すっと腑に落ちた。陽人が別れを告げた理由が分かった気がした。彼は常に自分のために人に親切だったのだ。優しいのではなく、優しいと思われることが好き。だから隣人トラブルや家族の病気など、自分の力でなんとかならないものには無関心。疲れきって慰めの言葉も聞けなくなっていた私では、もう彼の自尊心を満たしてあげられなくなってたのだろう。

 店を出ると、もう雨は上がっていた。まだ黒い雲が残る晴れ間に虹が出ていて、ビルの上に弧を描いていた。濡れたアスファルトから立ち込める草いきれの匂い。歩道を行き交う人達は立ち止まってカメラに虹を収めていた。私もスマホを構えて一枚撮った。隣に立つ成瀬は両手を垂らしたまま見上げていた。
「虹ってほんとは8色あるんですよ」
「えー知らなかった。そうなの?」
 私が叫ぶと「これは嘘です」と成瀬は笑った。いたずらそうな憎たらしい口元。ばしんと叩いた腕は思いがけないほど逞しかった。
 この人逃げないんだ。芯が強いから優しさをひけらかさない。ヒーローは普段その身を隠す。ぶっきらぼうという仮面で。
 真上に伸びる虹に8番目の色を探した。きっとあるはず。よく見えないだけで。消えていった影を追いかけるより、新しい色を信じる方がいい。ずっと素敵だし、なんだか胸が躍る。
「じゃあ行きましょうか」
 大きい目で振り向く成瀬の背中は昨日までと違っていた。へんちくりんでちっこいけど、頼りにできるこの男の子をもっと知りたくなった。
 いらなくなった口癖。薄くなる虹に放り投げて、光る歩道を成瀬と並んで歩きだした。

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