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Essay~随筆、エッセイ、小論~

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日常の機微を綴ったものや、日本文化や日本語の不思議、歴史や現代社会における哲学的な思考のあれこれを記事にしていきます。
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#思想

「包む」美学と「紙」に宿る心 日本文化とその精神についての雑考

 日本人は「包む」ことが好きだ。贈り物を包む、食べ物を包む、お金を包む、本を包む、骨壺を包むなど、日常に「包む」が溢れている。あまりにも当たり前のものとして受け止めているせいで、気にもとめていなかったのだが、ある時、義母が娘に小遣いを渡す時、ティッシュペーパーでお金を包んでいるのを見て、「包む」というその行為自体が気になりだし、止まらなくなった。  そういった光景は昔はよく見た。お正月、お金をお年玉袋に包んで渡すことはずっと続く風習であるが、お年寄りは紙の袋がないと、ティッ

ニュートンとライプニッツ 微分積分法発明をめぐる争い

 微分積分。高校時代に勉強したが、数学ができなかった私には、何のことかさっぱりわからなかった(笑)。ただ公式を暗記して、テストを乗り切っていたような気がする。今はもうその公式が何であったのかさえ忘れてしまっている。ということで、思い出す意味でも、いったん微分積分の説明を引用しよう。  うーん、何のこっちゃとなる。ざっくり、わかりやすくまとめて頂いている記事があったので、そちらからも抜粋してみよう。  おおざっくりでではあるが、自動車の「距離」「時間」「速度」の関係を例にと

柄谷行人と浅田彰による伝説の雑誌『批評空間』について語りたい

 今はもうあまり知られていない、伝説の批評誌というものがあった。私が伝説としているだけで、世代ではない方、関心がない方にはまったく認知されていないと思われる。  80-90年代の言論空間において圧倒的な影響力を持っていた批評家、柄谷行人と、『構造と力』によりニューアカデミズムの旗手とされた、浅田彰主催による『批評空間』である。この『批評空間』について、柄谷行人が当時を回想している記事があったので、懐かしくなり、取り上げてみたくなった。  これもあまり知られていないかもしれ

なんのために本を読むのか?「知は力である」ということ

 10月26日・27日は、神保町ブックフェスティバルがある。それはそれでまた楽しみなのではあるが、ところで私はなぜ本を読むのか? 読書が好きなのか? そのことについて少し考えてみたい。  私が本を読むのは、おそらくほとんどの読書家がそうであるように、この「世界」や自分以外の「他者」との接触、「知」への欲望、探究心といったものである。あるいは、「言葉」自体への希求、「表現」への渇望、「思考」するための手段、といった要素もあげられると思う。  これらを端的に楽しめるかどうかが

映しと移しと写しの世界、すなわち現し(うつし)の世界

 前回の記事で私は、旅先の沖縄での体験で抱いた違和感、私たちは情報や記号だけに取り囲まれた疑似的な世界を、ゲームの主人公のように行き来しているだけなのではないか、コロナ以降、個と個のつながりはそれぞれがそれぞれの世界に閉じこもっており、情報で充足された自己完結的な身体を生きているだけなのではないか、そしてそのような行動や思考パターンを規定しているのが、SNSをはじめとしたさまざまな情報メディアによるものではないか、ということを書いてみた。  じつはこのような指摘は、まったく

人はなぜ「座る」のか? 椅子と景色のはざまで

 オーギュスト・ロダンの彫刻『考える人』は座っている。座りながら考えている。私が好きな哲学者、スピノザの晩年の住処、ハーグにある彼の銅像も座っている。頬杖をついて、思索に耽っているように見える。  私もまた、この記事を書きながら座っている。仕事も基本はリモートで、PCでの作業なので、一日中座っているということもある。下手したら、家から半径数百メートルの範囲でしか移動していないということもあり、座り過ぎが運動不足を招く。それで、弱くなった膝の半月板が損傷してしまうという情けな

我、忘れる、ゆえに我あり

 AmazonのPrime Videoで、『IWGP・池袋ウエストゲートパーク』が配信されていた。懐かしのあまり、一日で全話、一気見してしまった(笑)。  窪塚洋介演じる「KING」のキャラクターは、今なお傑作である。 『IWGP』を見ていたこともあり、脳内ではずっと、作品の主題歌である『忘却の空』がリピートしている。清春が歌い上げる、SADSの代表的なナンバーだ。    そんなこともあってか、ふと「忘却」というワードが異様なまでに気になりだしてしまったのであった。そして

「見えない力」を哲学する

 *   17世紀のデカルト主義以降、われわれはあまりにも近代合理主義的、科学主義的な思考、価値概念に慣らされすぎてしまっている。  これによって見失われている、あるいは嘲笑されているものが非合理的な思考、すなわち、神的なもの霊的なもの魔術的なもの信仰的なものであるというように見受けられる。  だが、科学的、論理的に説明できないからというだけで、非合理的なもの、あるいは、近代以前の人間の知(たとえば神話や宗教、迷信、幽霊的なものなど)を嘲笑するものは、その非合理的なもの

『スプラトゥーン』の偶然的な世界が私たちの社会構造に似てしまう理由

任天堂の人気ゲーム『スプラトゥーン』  私も『スプラトゥーン2』の頃からはまっており、『スプラトゥーン3』はいまも熱中している、大好きなゲームである。  ゲーム自体をそもそもやらないが、このゲームだけには特別な思いがある。娘が小さい頃、一緒にはまったゲームであり、唯一、娘と心が通じ合える時間をもたらしてくれたものだったからだ(笑)。  一方で『スプラトゥーン』は人格を破壊してしまうくらいに感情的になってしまうゲームということでも有名である。メディアにも取り上げられている

私たちの世界はマトリックスの世界なのだろうか

 1999年に登場した映画『マトリックス』は、人類が現実だと思っている世界が実はコンピュータによって作り出された「マトリックス」と呼ばれる仮想世界であり、本当の現実世界での人間たちはコンピュータに支配され、眠らされているだけなのだという世界観を示し、話題となった作品である。 『マトリックス』が出るよりも以前に、批評家の柄谷行人は『内省と遡行』において、形式化を徹底した先には決定不能性しか残らないという問題に取り組んでいた。柄谷は病に取り憑かれていたかのごとく、世界の形式化に