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宗教や信仰についての雑記 #89

◯己という牢獄

誰にでも経験があることなのでしょうが、いくら話し合ってもわかり合えない、そんな事態にこれまで何度か遭遇しました。
コミュニケーションや話し合いの重要性は人口に膾炙していますが、それも不完全な人間の営みである以上、限界があるのでしょう。

世界にはいまだ戦争や紛争や様々な対立が存在しています。それほど大きなことではなくとも、我々の身近なところにも様々な諍いがあります。
それらは皆わかり合えることの限界が引き起こしているように思います。

どうやら私達は、自分が体験した枠の中でしか物事を捉えられないようです。人からの話を聞いたり読んだりしたても、わかったような気がするだけで本当にはわかっていないのでしょう。
そうでなければ、これほど多くの争いは起きないはずです。

言い方を替えれば、人間とは皆己という牢獄に囚われた存在なのかもしれません。そしてそれは人間が元来持っている罪のひとつなのでしょう。
イエスの受難もお釈迦様の求道も、そのことが要因のひとつだったように思えます。

コミュケーションの限界が、自分の心の中に怒りや憎しみを生み出しそうになったら、そのコミュケーションから一旦逃避・撤退するといことも必要でしょう。
そのことが、現代様々な国の憲法にも定められている政教分離の理由でしょう。
個人の心の健康管理のためにも、そのような先人の知恵を活用するべきなのだろうとも思います。

我々は皆牢獄の中の囚人である。まずはそのことの自覚からコミュケーションをスタートさせる必要があるのかもしれません。

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