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宗教や信仰についての雑記 #47

◯念仏について

現在、日本仏教の最大宗派(信徒数)は浄土真宗だそうですが、その信徒の内、普段から念仏を唱えている人はどのくらいいるのでしょう。

私の実家も浄土真宗なのですが、実際にはお墓が浄土真宗の寺にあるだけ、という状況で、両親や祖母が念仏を称えている姿を見たことはありませんでした。
念仏を称えれば阿弥陀仏に救われて死後に極楽浄土に往生できる、という基本的な教義を私が知ったのも本を読んで知ったのであり、両親も祖母も寺の住職も教えてはくれませんでした。
もしかしたら、信徒の家庭の多くがこのような状況なのかもしれません。

ある寺の住職が「今は多くの人があの世を信じなくなったから、説法がしにくくなった。」と言っていた、という話を聞いたことがあります。
確かにあの世を信じないなら、極楽浄土の存在も信じられないでしょう。
私自身もその教義を言葉通りには受け取れません。浄土の存在にそれについても「90%の疑いと10%の希望」といった感じです。

ですから、称名念仏の「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に帰依します」という意味なのだそうですが、私はあまりそのようには捉えていません。
ここから先は私個人の見解(あるいは空想?)なのですが、「南無阿弥陀仏」の意味については、

①阿弥陀仏の法性である空性の内に私が存在し、私の内にも空性が浸透していること。
②その空性を実感できず悟ることのできない私に救いたいという願いがかけられ、また、その願いが私という存在に織り込まれていること。
③常に自分は護られ、生かされているということと。

と、今のところそんなふうに捉えています。
ですから私にとって念仏とは、阿弥陀仏に帰依しますというこちらからの宣言ではなく、今自分が置かれている状態(願いや救いのもとにある)の再確認のようなものなのです。

でもこれは頭で考えた「理屈」にすぎません。
このことを実感できるような宗教体験をしたわけではありません。ですから信仰とか信心とか言うにはあまりにも微弱なもので、実際声に出して称名念仏したことなく、たまに心の中で称えるだけです。
しかしそんな弱い信心しか持たない者でも、阿弥陀仏の誓願の対象になっていると思うのです。

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