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小説|毒

「創作大賞2023」オールカテゴリ部門応募作品です。
2万文字ない短編小説なのでオールカテゴリにしました。
あらすじはなくても良さそうだけど、「人妻は毒」というお話です。


 友人の妻と通じるなどとても許されるものではなく、それまで私は自分がそれほどまでに醜悪な人間だとは思ってもいなかった。まして当の友人宅に招かれコーヒーを呼ばれるなど何という図々しさだろう。
 彼は居間のテーブルに準備をし、自分でコーヒーを入れてくれた。こいつは下手くそなんだよ、粉が全然膨れやしないんだからと、自分の妻に惚気のような悪態をついて、ゆっくりとポットのお湯を茶色い粉の上に注いでいく。私は喉の渇きを覚えたまま出来るだけ自然に笑顔を作り、居間と一繋がりのキッチンで皿を洗っている彼女に目を向けた。彼と彼女とは結婚5年目に入っていることを私は知っている。約5年前に行われた彼らの結婚式に私も参列したからだ。しかしそんな時間を彼女は感じさせなかった。彼女の後姿は当時のまま少しも変わっていないように思われた。その細身の体に普段着のラフなワンピースをまとい、その上にはまるで新妻にも見える真新しいエプロンを付けている。
 彼女が笑っているのが、後姿ながらに判った。酷いこと言うのね、もうご飯作ってあげないからと、振り返りもせず洗った皿を水切りカゴに入れる。
 彼女は少しも動じていないのだ。その夫が不意に思い立ち、前触れもなく突然私を家に連れて来たというのに、彼女は動じていないのだ。私ときたら、二人で飲んだ帰りに美味しいコーヒーを飲ませてやろうと彼が提案した時から今までの間、どんどんと喉の潤いを無くしていっていると言うのに。そしてもう早く、コーヒーが地道に抽出されるのなど待たずに、水道水で構わないから水を一杯くれないかと訴えるのを堪えていると言うのに。彼女は少しも動じていない。
 玄関を開けて、夫の後ろで畏まって会釈する私に、彼女は笑顔を向けた。あらこんばんは。久し振りの夫の友人に向ける自然な笑顔で、彼女はそう言った。私は自分の醜悪を棚に上げ、一瞬彼女を疑った。しかしそれなら私は何を期待していたのか。彼女がうろたえ、取り乱す様子を見たかったのか。更に妻の不審なその様子を見た友人が、訝しがって不愉快に顔を歪める様を、醜悪な意地悪さで見てみたかったのか。
 いや、そうではない。私には判っていた。彼女は取り乱したりなどしない。私をがっかりさせるくらい自然に振る舞うだろうと。私の方が顔を歪めるほどに、彼女は愛しい夫との仲睦まじい様子を私に見せ付けてくれるだろうと。
 それでも何故私がのこのことこの場を訪れたかと言えば、それはやっぱり彼女に会いたかったからに違いない。
 
 
 彼女と初めて二人で会ったのは、1年ほども前のことだ。
 私が職場近くの郵便局に立ち寄った際、ちょうど彼女がその場に居合わせた。聞けば通信販売で買った何かの支払いに来たのだという。買いたい物もあったからと、彼女は平日の昼間に一人で街を散策している訳を説明した。私は、偶には買い物でもして息抜きしないといけませんと、専業主婦の抱えるストレスを判っている風にうそぶいた。職場に戻るとすぐにその出来事を忘れてしまっていたのだが、友人の顔を見つけると思い出し、いや先刻偶然にと、彼の愛する妻の話を聞かせてやったのだ。その後半年は、取り立ててこれと言った話はなかった。
 
 
 甘やかな香りが部屋に満ちていた。もちろん焙煎が拙いんじゃどうしようもないねと、彼はコーヒーについての講釈をたれる。電動のグラインダーじゃ余計な熱がかかって不味くなるっていう奴もいるけどね、俺はそれほど気にしない。ただミルでカリカリ豆を挽く時の感触が好きだからね。さあ、コーヒーを作るぞって、わくわくもするじゃないか。そういいながら視線は真剣に茶色の粉に注がれている。彼は今と似たような事を言って、かつて彼女にもコーヒーを作ってやったのだろう。私は一つ一つと落ちていく琥珀色の液体を、サーバーのガラス越しにぼんやりと見つめた。何かが何処かで間違っていれば、こうやってコーヒーを入れているのは私だったという事もあり得たのだと、またそっとキッチンへと顔を向けると、ちょうど彼女は食器を片付け終わり、手を拭きながらこちらを振り向いた。
 
 
 私はスーパーで買い物をしていた。出先で終業時間を向かえ、直帰しますと職場に伝えてからの買い物だった。スーツ姿でスーパーをうろつく事くらい、独身の私にしてみれば何の不自然もなかったのだが、彼女の目には多少異質に映ったらしい。声をかけられてから気付いたのだが、思えばその店は二人の暮らすマンションの近くだった。こんにちはと私は返し、内心手にしているプリンの容器の持って行き場に窮しながら笑みを浮かべる。プリンなんか食べるんですか。甘いものは苦手のように見えるのにと、からかう彼女の笑顔に逆に助けられた気がして、私は堂々とそれをカゴの中に納めた。
 夕食を作っている最中に醤油を切らしていたことに気付いて買いに来たのだと彼女は言った。経済的に考えても、醤油などよく使う調味料は大きなサイズで買っておいた方が良いのだとは思うけれど、それを私は冷蔵庫にしまっておきたいので、そうなると少し邪魔なのだと、他愛もない事情を彼女は私に解説する。
 うちの冷蔵庫小さいの。デザインは可愛いんだけど。だからいつも小さな容器の醤油を買うでしょ、それで油断してたら今日みたいな事になるんだわ。そう言う彼女に、それなら賞味期限に注意して小さい奴を2、3個買っておくんですよと、独身男と主婦に共通然りの台所問題を論じる気分で、私はつまらない知恵を大袈裟に述べてみせた。封を切らなきゃ常温保存でも構やしないでしょう。彼女は2つも3つも予備醤油が棚の中にゴロゴロしているのは気に入らなかったようだが、いい考えねと請け合ってくれ、私の論説を無にしないよう、特売日でもないのに小振りの特選本醸造醤油を2つ買ってくれた。
 そして二人で店を出て、別れ際に彼女は言った。実はこの間、郵便局で会ったこと、あの人に言われちゃったの。どうやら、一人で街に買い物に出るくらい構わないが、自分の知らない時によその男と会って楽しく会話をするなんて少々気に入らないと、この友人は言ったらしい。しかし、示し合わせて会ったではなし、偶然だから仕方ないじゃないですかと私は友人に対して憤ったが、彼女は笑って受け流した。少し妬いてるみたいだったわ。本当バカなんだから困っちゃう。私はまさか私のせいで険悪になったりはしなかったでしょうねと心配したが、そんな事はなかったと彼女は言った。ただ、またこうやって二人で買い物をしたなんて知ったら、今度は殊更に文句を言ってくるだろうから、今日のことは主人には内緒にして欲しい。そう言葉を続けた彼女に、私はいつしか見入っていた。
 内緒という言葉にわずかに潜む背徳の匂いを嗅ぎ取り、男に潜在する邪心を呼び覚ましたとすれば、それは少し考えが子供っぽいというものだ。しかし皆無ではなかったと、やはり私は白状するしかないだろう。ただ言い分けるなら、彼女の可愛らしい微笑みや、声音や、仕草は、会う時いつも私を刺激していた。彼女が友人の、もちろん赤の他人の場合でもそうだが、どの男の妻でもなければ、それは単に恋と形容されるべきもので、それを意識し彼の人の前で強張る私は、なんと不運で可愛そうなのだろうと、それを知るただ一人の自分で自分を同情する他なかった。
 
 
 よし、と言う声で私は友人に顔を戻す。しかつめらしく彼は陶器製のドリッパーをガラス製のサーバーから持ち上げて、隣に用意していた赤いマグカップにそれを被せた。ドリッパーの中にはまだ落ちきらない湯が残っている。これを落としちまったら不味くなるんだ、覚えときなよと、彼が理科の授業でも私に受けさせているかのように言うので、私はからかい半分言ってやった。もちろんもう半分は自分の中の焦燥のごまかしだ。そんなにコーヒーが好きならサイフォンを買って来たらいいさ。まるで喫茶店みたいになるよ。それをフンと彼は鼻で笑い、あーこれだから素人は嫌なんだと斬り捨てる。純喫茶のマスターでもない限り自分だって素人だろうと思う私を薄くした目で見やり、それに少し愛情を注いだものを、今度はキッチンの奥さんに向けた。すぐに細目は私に戻り、彼は言う。あんなものただの演出さ。見た目が派手なだけで、味の判らない奴はそれだけで有り難がるんだから、全く情けないよ。
 その視線の動きから察するに、おそらく彼の愛する妻は、私と同じようなことを彼に言った事があるのだろう。そんな嫌味な能書き聞かされたんじゃ、美味しい筈のコーヒーだって不味くなるわよ。彼女はそう彼をやっつけながら、三脚のコーヒーカップとソーサーを盆にのせて運んできた。嫌味だったか?と心外そうに彼は呟き、小花柄の揃いの食器を盆からテーブルへと移していく。そんなに偉そうなこと言うなら、ネルドリップで淹れて欲しいわ。ねえ、そう思わない?と、彼女はいきなり私に話を振った。私は息を飲むことを無意識のうちに拒み、お蔭で一つ咳込んで、言葉は聞いたことあるけれどどういう物か判らないと、正直に答えた。彼女は途端に先程までの友人と同じ表情になって、あら知らないの?と笑う。フランネルっていう布で出来てるフィルターを使うのよ。頑固なお爺さんがやってる喫茶店に行けば見られるわ。そんな彼女に夫は笑って、いい加減なことを言うなよと肘で彼女の腕を小突いた。頑固な爺さんの店が絶対ネルドリップだなんて保証はないさ。あらだって、あの店はそうじゃない。あのマスターは頑固そうでしょ?あの店はあの店だろう。二人にしか判らないあのの連発に、私は少し苛々し始めていた。
 
 
 三度目の再会は早かった。一ヶ月も経っていない。夫が忘れていった愛妻弁当を、彼女はわざわざ職場まで持ってきたのだ。外観ほど立派ではない自社ビルのやや古ぼけたリノリウム張りの廊下で、彼女は小さな紙袋を持って、行きかう人の様子を遠慮しながらも好奇心を持って窺っていた。驚いた私の顔を見つけると笑って、主人がいったい何課に勤めているんだったか、さっぱり知らない事にここに来て気付いたと言う。私は冗談だろうと思ったのだが、よくよく話してみれば本気で知らなかったのだから驚いた。でも度胸がありますね。職場にお弁当持ってくるなんて、しばらくは噂のネタになってしまう。あらどうして?昼飯くらい、出入りの弁当屋もあるし、すぐ隣にコンビニもあるし、忘れたって何とでもなるのに、わざわざ電車に乗って持ってきてあげるなんて、そんな夫婦仲を見せ付けられたんじゃ、誰だって冷やかしたくなりますよ。あら、珍しいことかしら?そりゃあもう。でも、あの人が持って来てって言ったんだもの。そうでしたか。わざわざ電話してきて、下駄箱の上に忘れちゃったって。確かに今朝はバタバタしてたけど、それに気付かない私も私ね。
 私は友人の部署まで案内して声をかけた。彼は自分で呼んでおいて、照れた様子で弁当を受け取った。
 最近だけの話ではなく、確かに彼は時おり、愛妻家振りを方々で披露していた。それまでは何てことのなかった惚気話が、その時は既に疎ましく感じられていた。本当なら、その辺りで彼とは距離を置くように努めなければならなかったのだと、心にもないことをという非難も忘れずに私は思う。
 
 
 向かいのソファーに二人は座り、くつろいだ雰囲気でコーヒーを飲んでいる。私はがぶ飲みしたい気分で、それでも熱さには逆らえないので、上品に落ち着いた風にそれを飲んだ。いったいインスタントとの違いなんか、私には判るものではない。ここに至るまでの過程で生じた香気と雰囲気とが、美味さを演出しているだけのような気がする。しかし何故、彼女はここまで平気でいられるのか?我が夫に優しく微笑みかけ、我が夫の親友に親しみを込めて微笑みかける彼女の心の頑丈さに、私は感服さえした。
 
 
 友人から電話があり、挨拶もそこそこに代わって彼女の声が響いて来た時は何て悪趣味だろうと思ったのだが、考えてみれば私の慕情などどちらにも知られておらず、二人が悪意のあるからかいを私に仕掛けてきた等というのは、単なる被害妄想でしかなかった。
 電話の用件は全くつまらない質問だった。夜二人で映画を見ていてそんな話に流れたらしいが、随分昔のフランスの子供が主人公の反戦映画で、監督がいったい誰だったかというのだ。私がルネ・クレマンだよと教えてやると、彼女は受話器を押さえる様子もなく私でない男にその名を復唱する。すると友人の歓声が後方から聞こえてきた。やっぱりね、あいつならすぐに判ると思ったんだ。そして彼女は私にありがとうと言い、おまけの様に何年の映画なのと聞いてきた。多分日本公開が52年だったと思うけど、という私の返事に、あら私生まれてないのね等という当たり前過ぎてやや頓珍漢な感想をもらし、二人が多少酔っていることを私に窺わせた。そしてもう一度、今初めて言うようにありがとうと礼を言い、さっさと電話は切られたのだ。
 私はそれからなかなか寝付けず、仕方がないのでベッドから這い出すと、物の本を棚の奥から引っ張り出してそのページを繰ってみた。そして52年というのは製作年で、日本公開は53年だったことを知るのだが、それを訂正する為に電話をかける気にもならなかったし、向こうだって迷惑な話だろう。彼女の記憶に残ったかはともかく、私は多分と断ったのだしそれほどの罪はないさと、一度手洗いに寄ってからベッドに戻る。それですぐに眠れる訳がない。二人の現在の状況を想像するに及んで、私は頭を抱えた。やはりこれは嫌がらせに違いない。二人して私の気持ちをもてあそび、酒のつまみと興じたのだ。私は卑屈にも内心で二人を殺した。そして青ざめ、夢の中に入った後も、彼らを生き返らせてくれと神に請うのだった。
 
 
 私はカップから浮かび上がる白い湯気の中に、彼女の素肌を想像した。実際の彼女はエプロンだけを外して、隣の夫を楽しそうに見上げている。
 湯気がなくなったので、私はお代わりを友人に注いでもらう。どうだ、美味いだろうと自慢げな彼に、ああまったくねと気のない返事を返す。
 
 
 大型書店の3階フロアで出くわした時、彼女は話を始める前から唇に立てた人差し指をあてがった。今にも声をたててしまいそうな堪えた笑顔で、内緒だからねと、ウィンクまではしないものの、すればきっと可憐に決まっただろう可愛らしさを辺りに振りまいている。近所の本屋さんに行ったんだけど、何だかピンと来るのがなかったの。それで、ここにはあったんですか?あったわと手を上げて、彼女は小さなデコレーションケーキの写真が表紙の、洋菓子のレシピ集を私に見せる。コーヒーにぴったりのお菓子であることが、帯の宣伝文句に書かれていた。私は彼女が夫のためにケーキを焼く姿を思い浮かべ、何の感想も口にすることができなかった。彼女は首を傾げ、可愛いでしょう?と聞く。
 ええ。でも、本当に作るのかな。その本を部屋に飾るだけで満足してしまうんじゃ。やっとそんな意地悪を言うと、彼女はくすくすと笑った。大丈夫よ、少なくとも1つは作ってみせるわ。
 彼女はそのレシピ集とインテリア雑誌と文庫本の3つを買って、私は実用書と地図の2つを買って、申し合わせた訳ではないのだが一緒に店を出た。車道では車がうんうん唸り、歩道では人がせかせかと急ぐ街の騒がしさに紛れて、私は本心を少しだけ口にした。羨ましいな。あいつは休日になると、可愛い奥さんに美味しい3時のおやつを作ってもらえるのか。少しして目を向けると、彼女は私を見上げていた。羨ましいの?そりゃあ、もちろん。彼女の口調が少し大人しかったので、何かを感じ取ってくれたのかと期待したのも束の間、本当に甘い物が好きなのねと、拍子抜けな感想が返ってくる。しかし、やはり大人しい口調で彼女は言った。そんなに羨ましいものじゃないと思うわよ。どういうことです?実際は、少し違ってるんだわ。ほら、レシピ通りに料理を作っても、出来たものは思ってたものとはちょっと違うってあるじゃない。あれと同じね。何かあったんですか?私は少し声を落として聞いた。深刻な雰囲気で、しかし内心では何かの隙間を見つけた喜びを持って。
 仕事は?と、彼女は切り返してきた。少しでも職場への未練を見せれば、やっと見つけた隙間はすうっと閉じて、再び姿を現すことはないように思えた。お仕事の邪魔をしてごめんなさいねと、彼女は社交辞令を口にして帰り、きっとそれきりになるのだ。私はすぐに返事をした。急ぎませんから、駅まで送りましょう。嬉しいけど、いいの?怒られちゃうわよ。平気です。私は強気に駅に向かう足を緩めなかった。
 何か心配事でもあるんですか。別に、ずっと前の話なのよ。何です?もしかしたら、あなたも知ってるんじゃないかしら。友達だし、男の人ってそういう時の結束って妙に固くなるものでしょ。はっきり言ってもらわなきゃ、よく意味が判りません。少なくとも、あなたに秘密にしなきゃいけないような奴の事情なんか、僕は知りやしませんよ。本当に?ええ。そう、あのねと、彼女はぽつぽつと話し出す。
 
 
 二人はキッチンに移動していた。彼女はコーヒーカップを洗い、友人はその周りを、片付けを手伝っているような邪魔をしているような、微妙な間合いでうろつきながら話をしている。そうは言うけどさ。先ほど途中で終わってしまった話題の続きだ。彼は腕を組み、難しい顔で彼女を眺める。ネルフィルターなんてやっぱり嫌だよ。水に浸して保管しておくんだぜ?面倒じゃないか。君が洗ったり何だり、してくれるって言うんなら買ってきてもいいけど。嫌よ、私は関係ないわ。関係ないことないだろう?友人は彼女の肩に手をかけようとして、彼女はふざけてそれを嫌がった。そしてこちらを振り向いた。ねえ、どう思う?私は答える。そりゃあもちろん関係ないね。奥さんも僕も、コーヒーの素人なんだから。彼女は喜んで、夫にカップを押し付けた。
 
 
 浮気って言うほどのものではなかったのよ。彼の言葉を信じればだけど。何だかいい雰囲気になってしまって、それにのまれて、浮気しそうになったんですって。でも頑張って、何とかキスだけで済んだそうよ。
 私はしばらくの間を置いて、口を開いた。奴がそう言ったんですか?まあ、言い方は少し違ったみたいだけど、出来事としてはそんな所なんでしょうね。自分から、白状したんですか?何となく様子が変だから追求したら、白状したわ。私が知らん顔してたら、黙ってたんでしょうね。もちろん凄く謝って、もう絶対こんな事しないって約束してくれたけど、でもね、一度そういうことがあると、やっぱり、不信は残ってしまうものよ。世間を見渡してみれば、そりゃあ浮気なんて珍しくもないかも知れないわ。でも誰だって、自分の身に降りかかってくると凄く嫌なものでしょう?自分の恋人だけは違うって、思いたいものよ。人にもよるだろうけど、私は嫌だったわ。私はそんなものとは無縁でいたかった。でも、そうじゃなくなってしまった。彼も、状況によっては浮気しちゃうかも知れない、一般的なつまらない男だったのね。でも。と、私は友人を弁護する言葉を探した。しかし上手い言葉は浮かばないし、なにしろ彼を弁護したところで私にメリットはないのだ。そうなるとますます気の利いた言葉は出てこない。
 でも、なに?
 奴は、あなたのことを一番好きなんでしょう。
 そうかも知れない。だからまだ一緒にいるんでしょうね。そうじゃないなら、さっさと家を出て行けばいいんだわ。しつこいくらい何度も謝って、土下座して、口聞かないでいるとソワソワしてまとわり着いてくるし、普段しない掃除までしてくれた。けど、違うのよね。何て言うか、謝ったって、浮気をしていない彼に戻るわけじゃないじゃない?何したって、もう遅いのよ。私の気持ちだって変化するわ。それ以前の彼と同じように、それ以後の彼も愛することなんて、出来る訳ないのよ。
 奴のこと、もう好きではないんですか。
 好きよ。好きじゃなきゃ同じ部屋に一緒に暮らすなんて出来ないわ。でも、好きが違うの。今までとは違うの。判んないかも知れないけど。
 駅に着いた。彼女は私の正面に立って、ありがとうと言った。
 それじゃ。
 あの。
 何?
 来週、休みを取ります。会ってもらえませんか?
 彼女は笑うでなく、怒るでもなく、ただじっと私を見つめ、時々瞬きをする。
 よかったら、会ってもらえませんか。
 
 
 映画を見ようという友人の気紛れな提案で、私は退室する機会を逃がし、代わりに休日前夜映画鑑賞会の選考委員を命じられた。急いで帰ったって誰か待ってる訳じゃないだろうと、私の琴線に触れるような嫌味を友人は軽く口にする。
 私は一瞬、酷く彼を憎らしく感じた。それは本来なら許される感情でないことは判っている。私は彼の妻に横恋慕している醜悪な男なのだ。今こうやって彼らの家に上がり込み、その彼女と秘密を共有しているという優越感を持って、既に何度か彼を見下したりもした。夫婦の良好な関係を見せ付けられて、それの何倍も苦しめられているにしても、私に彼を恨む資格はない。しかし、それでもやはり憎らしい。いっその事、ここで何もかもぶちまけてしまおうか。信じなければ、彼女の体の特徴を一つ一つ言って聞かせようか。そして私はきっと、愛した女と友人を一度に失うのだ。
 恋は罪悪であるとは誰が言った言葉だったろう。
 しかし私が思うに、恋が罪悪である筈もない。かつて彼と彼女が恋に落ち結ばれたことが罪悪である訳がない。恋が罪悪なのではない。罪悪は私の中に在る。
 
 
 2LDKの私の部屋を、彼女は広い広いと褒めてくれた。一人じゃもったいないわ。そう言って、自分の発言がわずかながらも緊張を生むものだったと感じたのか、一拍置いて、何か飲み物をちょうだいとすぐに話を変えた。コーヒーは嫌いではないが、友人を連想させるようなものは出したくなかったので、私はあらかじめ用意していたハーブティーを入れる。ペパーミントの香りを彼女は気に入ってくれ、女性客の多い輸入雑貨屋で迷ったかいがあったと、私はほっと胸を撫で下ろした。
 彼女は書棚に興味を示し、あれこれと本を引っ張り出しては、大して目も通さずに元の場所にしまっていった。彼女が好みそうな料理本やインテリア雑誌はないのだから仕方ないだろう。しかし、文豪と呼ばれる作家達の古い本を手にした時は、比較的長くそれを見ていた。読んだことあるわ、これ、随分前だけど。と彼女は背表紙を指差したりして、ざっと勘定すればそこにある数十冊のうち三分の二は読んでいた。実は私も置いているだけで、なかなか読み出さない長編があるのだが、彼女がそれを読んだと言った時は、失礼にも驚いて声を出した。凄いな。僕はまだだよ。なかなか名前に馴染めなくて、この先どれだけ苦労して読まないといけないんだと思うと、どうしても途中で読む気がなくなってしまうんだ。気が向いてまた手にしても、結局同じくらいのページで挫折するから、一向先に進まない。彼女はくすくすと、ロシアの名前って判んないわよねと笑った。でも私の友達は、その名前が面白いって言ってたわ。高校生の頃よ。それで自分は読破したものだから、カラキョーくらい高校の内に読んでおかなきゃ恥ずかしいなんて言うの。言っとくけど、名前の変化を無視して一つに統一されてる訳本なんか読んだら承知しないわよって。とてもじゃないけどお手上げよ。私はタイトルの省略形、もしくは愛称に苦笑しながら、でも君はそれに触発されて読破したんだろう?偉い偉いと彼女を褒めた。しかし彼女は、意味ありげににんまりとして、映画のディスクの並ぶ棚に体の向きを変えた。
 映画好きなんですってね。昔からなの?置いていかれた気分を抱えて、私は彼女の隣に並ぶ。うん、そうだけど。顔を覗き込むと、やはり彼女はニヤニヤしていた。どうしたの?本の話はどうなったの?するとついに彼女は、ごめんなさい、私が読んだのは漫画なの、と言って吹き出した。だってあんまり長いんだもん。判りやすくコンパクトにまとめてある漫画を本屋さんで見つけたから、それを買っちゃったのよ。何だ、ずるいよと私は責める。まさか先刻言ったの全部漫画で読んだんじゃないだろうね?違うわ、本当よ。どっちだか判らない返事で彼女は笑い続けた。ずるをしたのはそれだけよ、後はちゃんと本を読んだのよ。
 落ち着くと彼女は改めて、今度はディスクの背表紙を指でなぞっていった。私はその細い指を目で追った。そして、我慢できずにその指をつかまえた。
 しばらくの沈黙に私は耐えた。すると、彼女が私の方を向き、私の目を見ながら言った。二番目なんて必要ないの。それは、以前言った私のセリフに対する彼女の意見だったのだろう。友人は彼女を一番愛している。そして、確かではないが、もしかしたら二番目に誰かが控えているのかも知れない。私は友人が彼女に嘘をついているとは思わなかった。彼は多分突発的に浮気をしそうになって、それはいけないと自分に喝を入れ、振り切って難を逃れたのだ。彼からその断片さえ聞いたことのない意外な話だったが、私の知る彼の性質から言って、ただそれだけの些細な事件だったのだろうと自然思えた。しかし、どうして私がそのことを、彼女に弁明しなければならないだろうか。
 僕は君だけが好きなんだ。
 判らないわ、それが本当なのかどうか。
 僕は君が好きなんだ。
 
 
 何か飲もうと言い出したのも彼だった。コーヒーで締めるんじゃなかったのかい?呆れる私に、まあいいだろうと笑ってウィスキーを持ってくる。ビールくらいでいいんじゃないか?こんな夜が更けてからビールなんか飲んでられないよ。あれは宵の口の飲み物さ。どうやら我が友人は、コーヒーだけでなく酒の専門家でもあるらしかった。キッチンでは仕方なくという風に、その妻が氷やグラスの準備をしている。どうせ明日は休みなんだ、いいじゃないか。酔い潰れたら泊まっていけばいいんだから。そう言いながら彼は三分の二ほど残っているボトルの蓋をポンと開けた。私は友人の顔を見て、潰れるのがお前だけならいいのにと考える。
 
 
 疲れたのか、彼女はすぐに寝入ってしまった。私はそれをいいことに、シーツを捲って彼女の綺麗な体を眺めた。そして、どうしてあの男よりも早くに彼女に出会えなかったのだろうと仕方なく悔やむ。それから頭がぼんやりしてきて、彼女の輪郭も曖昧になっていく。私も疲れていたようで眠ってしまったのだ。気付くと隣に彼女はおらず、洗面所の方で何やら物音が聞こえた。何故か急に寒気を覚えて、私はシーツを体にまとって音の方へ急いだ。彼女はすっかり服を着ていて、化粧をし直した自分の顔を、大きな鏡に映して見ていた。
 すっかり元通りかい。私の声は自分で思ったよりも暗い響きを伴って出てきた。勝手にシャワーとバスタオルを貸してもらった侘びと礼を彼女は言って、私の前に歩いてくる。どう、元通り?首を傾げて微笑む。元通りじゃないと困るよね、服装も化粧も髪型も、ここに来る前と後とでは、そっくり同じじゃないとまずいに決まってる。どうしたの?顔が怒ってるみたい。怒っていやしないさ。ただ君が、全く変わってないみたいだから少しがっかりしてるんだ。変わって欲しかったの?ああ。どんな風に?例えば、もう帰りたくないとか、私にはあなたしかいないわとか言って、ぎゅっと抱きついて欲しかった?
 私は腹が立って彼女を抱きしめた。からかう気か?そうだよ、そうして欲しかったよ。家には帰らず、ここに居すわるって言って欲しかったさ。彼女はじっとしていたが、しばらくして私の腕を解いて顔を上げた。その顔にこちらを茶化すような笑みは浮かんでいなかった。私はきっと変わらないわ。私はあの人の奥さんよ。こんな事があったんだ、変わったっておかしくないんじゃないのか?いや、変わって当然じゃないのか?でも、違うのよ。多分、私は既に変わってたのよ。そうでなければ、こんな事しなかった。その夫が浮気をする前の彼女と、その後の彼女が変わってしまったと言うなら、彼女自身が浮気をしたその前後で変わってもいい筈だと私は思う。しかし、彼女は違うと言った。違うのよ、判らないかも知れないけど。
 全く判らない話だ。もうどうでもいいから私は彼女と一緒にいたかった。今だけでなく、これからもずっとだ。しかし彼女は、そういう訳にはいかないと繰り返す。ねえ、私、あなたを信用していないの。どういうこと?僕は君が好きだよ、嘘じゃない。ええ多分そうなんだと思うけど、それは今の話よ。あなただってこの先、きっと浮気をするんだわ。決め付けるなよ、奴と僕とは違う人間だろう?だけど考えてみて、親友の奥さんと過ちを犯すような男が浮気しないって力んでも、やっぱり信じられないと思うのよ。
 なんて女だろうと思う。もちろん口説き落としたのはこっちだが、彼女だって当事者なのだ。君は自分を信じてるのか?そう聞くと、判らないと答えた。全く判らないことだらけで、頭が変になりそうだった。会ってくれよ。せめてまた会うって約束してくれよ。いいけど、だから何がどうなるって話しではないのよ、多分ね。構わない。私は両手で彼女の頬を挟んだ。彼女にとって友人は夫ではなく浮気をした夫であり、私は親友の妻に手を出す下衆でしかないと思うと、とても虚しい気持ちになった。私という一個を見てくれないことに苛立った。そして彼女がそういう見方をする原因が、友人の浮気にあると思えば、また彼が恨めしく思えてくる。そんな瑣末な事件さえなければ、あったとして、それを彼女に完璧に隠し通していればよかったのだ。そうすれば私の想いもここまで打ちのめされずに済んだだろう。彼女に告白をしたとしても、ここまで彼女の心を動かさないということはなかっただろう。もしかすると、私に動く可能性だってあっただろう。
 私は彼女の唇を見て、来た時よりも口紅が濃いと言い、それを口実に口付けをした。
 
 
 映画を見ながら酒を飲む予定が、どちらかと言えば酒の方にウェイトが寄ってきて、途中から何の映画を見ていたのだったかもあやしくなってくる。もともとほろ酔い加減で帰ってきたのだから、コーヒーでかなりそれが冷めていたとしても、2ラウンドの防衛力が弱まっているのは仕方のないことだった。そんなことを思い浮かべているのだから、映画の種類も推して量るべしというものだ。言葉の使い方もおかしくなってきて、友人の話し言葉も一度では聞き取れなくなった。何だって?だから、お前みたいな奴は早く結婚した方がいいんだって、いいぞ、結婚。私は露骨にむっとして、珈琲鑑定士は聞き酒も出来るうえに結婚相談員でもあるのかと、迫力の欠けるセリフで毒突いた。何言ってんだお前と友人は笑う。
私は尚も反論しようとして、そして喉に違和感を覚えた。
 痺れたようになり呼吸が苦しくなった。途端に吐き気を覚えて、私は喉を押さえ、体を屈めてソファーの上に胃の物を吐いた。それが酒の酔いから来るものでないことははっきりしていた。吐くほどに酔ってはいなかった。友人を見た。彼は立ち上がり、こちらを見下ろしていた。
 ああ、そうなのかと私は思う。酒の半分入ったままのグラスを見た。彼のグラスには酒が満ちていた。彼は知っていたのだ。私が彼女と通じていることを。初めから判って、私をここに呼んだのだ。私は悟った。彼が私のそれ以上に、私を憎んでいたことを。しかしどうしてと、私は言わずにはいられなかった。言ったと思うが、思ったような声では言えなかった。どうして、こんなやり方で、こんな。この後、彼女はどうなるのだろう。恐ろしい、こんな。
 友人を見る。これが最後かと顔を見る。彼の顔に表情がない。
 表情がない。表情がない。表情がない
 
 
 
 表情がないというのは思い違いか、錯覚だ。彼の友人はしっかりと驚き、親友の苦しむのを凝視していた。そして、震えながら救急車と何度か叫んだ。そして妻を振り向き動きを止める。台所に佇む妻の顔にこれといった表情がなかった。
 そしてやがて彼は、その友と同じように苦しみ、倒れた。

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