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仕事が終わって帰っている途中だった。
私は横断歩道の手前にいた。
歩道を小さな白い犬が散歩させられていた。
目の前を家族らしい男女が数人でひとりの犬を連れて横切っていく。
私は犬を見なかった。
犬は私に向かってキャンキャンと吠えながら言った。
「判ってるくせに知らん顔かよ、へっ!」
それでも私は犬を見なかった。
私はまるで人と犬とが散歩している所なんて見えていないように、縦に二つ目のお化けみたいな信号機をただ睨んでいた。
「そうさ、こいつらは俺に飯を食わせてくれるんだ!」
知らん顔している私に犬は続けた。
「実際イラついてんだ、こいつらには!けど飯は食わねえとな!どうしてイラつくかあんたに判るかい?食べろと飯を差し出すクセに、食べようとすると待ったをかけるんだぜ。バカにしてるだろう!」
犬は飼い主の女に引っ張られて先へ進んだ。
それでも私に話しかけてくる。
飼い主はきっと誰に向かってキャンキャン吠えているか、もはや理解していないだろう。
飼い犬がよその人間に吠えることはいつもの事で慣れ切っているようだった。
それについて他人に気を使う様子のない飼い主たちで、人の近くを通る時にリードを短く持ち直すような事もなかった。
「俺が食べたくてイラついて尻尾を振り回すのを、こいつらは笑って見やがるんだぜ。イラついてる姿を写真に撮って笑ってやがる。おい聞いてるのか?」
私は知らん顔を続ける。
「見てろよ!俺は隙を見て逃げてやる。ああ、簡単さ、こんなバカたちを油断させるなんてな!聞いてるか?まんまと出し抜いて、慌てふためく姿を、今度は俺が笑ってやるのさ!」
二つ目小僧は赤い目をウィンクして、緑の目を開いた。
私は横断歩道を渡って、バス停にたどり着いた。
犬は時々キャンキャンと叫んでいた。
だいぶ離れたのでもう私に話しかけてはいなかった。
飼い主の人間に何か言っているようだが、私には関係なかった。
私はバスを待ちながら、同じバス停で待っている年を取った男が煙草を吸っているのに気付いて眉をひそめた。
きっとバスが来たらこの男は道端に吸殻を捨てるのだろう。
そう思いながら男を眺めていると、離れたところから人間の叫び声が聞こえてきた。
白い小さな犬の一行だろうと予想がついたので、私は振り返らずに、バスが来る方向へ目を向けた。
犬の声も聞こえて、人間が騒ぎながら走ってくる音も聞こえた。
私はバスはまだかと、道の奥へ目を凝らした。
そのうち車道を、小さな犬がすごい勢いで走ってきた。
私のいる方ではない。
反対車線を、私の乗るバスが来る方へ向かって走っていった。
だから私の視界にその光景が入ってきた。
犬の後ろを血相を変えた飼い主たちが追いかけていくが、若い人間でも犬に追いつく訳はなかった。
リードの外れた小さな犬は気持ちよさそうに車道の真ん中を走り、途中立ち止まって、飼い主を振り向いた。
飼い主は手を広げておいでと呼んだが、犬は行くふりをして飼い主をすり抜けると、高らかに笑ってまた逆方向へ走っていった。
「ほーら、上手くいっただろうが!」
片側一車線の狭い道で、交通量は少なかったがそれなりに危険はあった。
遠くに見える交差点では横から出てきた車が犬と人間に気付いて減速し、停車していた。
何故飼い主がリードを外したのかは判らないが、他人に気を使わない飼い主のやることなどに興味はない。
犬は狂喜して走り続け、もう見えなくなった。
必死に追いかける飼い主たちの後姿はまだ少し見えていた。
どちらにしろあの一行は来た道を引き返している。
犬は結局は家に向かっている事だろう。
飯は食わなくちゃいけねえからな。
私は飼い主たちを見はせず、ずっとバスを待っていた。
はたしてバスがやってくる。
バスの乗降口は私の前で止まった。
年を取った男はいつもの事で慣れ切ったような仕草で少しかがむと、煙草の吸い殻を歩道の端っこでもみ消して、そのままそこに置いて姿勢を戻した。
私は視界からその男を消して、バスに乗りこんだ。
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