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【エッセイ集】②小さきへら鮒釣行

 バス停には、しっかりと手をつながれた幼い私と祖父がバスを待っていた。
私が幼少の頃になる。度々、祖父に手をひかれて釣り堀にいった。都バスを乗り継いでいったのだから、いま思えばさほど遠くはなかったように思うが、家の庭から半径50メートルほどが遊び場だったその頃の私には、途方もなく遠い場所に連れていかれるような、半ば恐怖をおぼえるほどの冒険だった。そんな私に祖父は常に笑顔で話しかけ、「つぎ止まります」のブザーを押したくて仕方ない私の右手の人差し指を、日頃、鍛冶の仕事でがちがちに固くなった、そのゴツいひびわれた大きな手のひらで優しく包み込むのだった。
 その釣り堀場はバス停から10分ほどの道のりの場所にあったと思うが、今となっては定かではない。何せ祖父は幼少の私の手をひいた右手には布袋にまとめた「へら鮒竿」、肩からは木製の道具箱や折りたたみ椅子を提げてゆっくりと歩をすすめていたのだから、それは亀の歩である。ようやく釣り堀場の入口にさしかかるとその奥には、永遠とも思える広がりの釣り堀池が深い深い深層の黒緑の淵をまるで尾瀬ヶ原にある池塘(ちとう)のごとく大きな口をいくつも広げ、今にも飲み込まれそうな気持ちになったものだ。やがて空気感が変わる……池から湧き出る魚とも藻ともわからない独特の匂いが私は好きではなかった。場内に立ち入ると祖父の私を握る手の強さがいっそう固くなった。池を見つめる真剣な私の顔を何度も覗き込みながら、祖父はゆっくりと歩をすすめて、釣り堀の受付のある小屋へとむかった。
木塀で囲まれたトタン屋根の片隅に机が置いてあり、そこの主と思われるお婆さんとなにやら仲良さそうに一言二言会話し、簡単な受付をいつもすませた。受付の横にはいくつかのテーブルと椅子があった。そこでは日長、つりに講じる人たちが休憩をしたり、蕎麦などの食事がとれる食堂を兼ねた場となっている。鉄製の黒足が錆びて赤錆色になりかけているテーブルには、かかったクロスの青が色褪せて所々がシミのように広がり、その様がまるで釣り堀池を写し込んでいるようにその表面が太陽の遮光に輝いて光った。椅子の足も同様に錆びていて、違ったのは座面のビニルクロスが赤のチェック柄であったこと……テーブルクロスの池の下にもその柄模様が隠れていたのかもしれないと想像させた。 
 祖父は折りたたみ式の椅子を広げて、私を隣に座らせ自分も腰掛けた。目の前に広がる池の広さと深さは、いっそう私を恐怖におとしいれようとしたが、祖父は釣り道具の準備を始めながらも、私から目を離さなさずに微笑みを絶やさなかった。へら鮒釣りの餌は「団子」だ。袋に入った「マッシュポテト」を作る時のような粉と水とを洗面器に混ぜてこねてから、さらに何やら混ぜ込んで作る。出来上がった土色の団子に釣針を隠すように丸くつけてから、釣り糸を池に放り込む。するとその団子が水中で少しずつ崩れて、そのまわりに魚が寄ってくる。コマセのような効果だ。その中心部分にある団子の塊を吸い込んだ口に針がかかるのだ。このように書くと簡単に釣れそうだが、へら鮒はとても用心深い。こと寒い時期は活動もゆっくりとなり、なかなか食いついてはくれない。祖父は私が飽きてきた頃合いをみて、いつも竿を持たせてくれた。祖父の愛用していた「へら鮒竿」は竹製の立派な和竿だった。

祖父は「へら鮒釣り師」だった。
家には春先のつくし野の如く、釣りのトロフィーが立ち並んでいた。
祖父には子どもの頃から仲の良い同い年の従兄弟がいた。若い時分には二人一緒に祭りの度に、神輿の上に飛び乗って拍子をとっていたと聞く。深川にあった和竿店は屋号を「竿富士」といい、その祖父の竹竿は従兄弟の営む手製の竿だった。晩年は「江戸の名工」とうたわれ、無形文化財としてテレビのドキュメンタリー番組にもなり、その手技の一部始終が放映された。間口は二間ほどの小さな店舗兼工房で、入口は木引戸だ。その上には屋号の看板が大きな文字で掲げられいる。入ると二畳ほどの小上りがあり作業場となっていた。店内には完成品の和竿が壁に沿って並べられている。どれもニスを塗られ良い飴色と漆黒のコントラストが見事だ。土間にはこれから作る竹の材料などが所狭しと置かれている。幼い私も、たびたびその工房で、従兄弟のお爺さんが竹を炭火で炙ってから、木製の工具で丁寧に真っ直ぐに伸ばす光景などをぼおーっと見ていた記憶がある。炭の爆ぜる音――その焦げるような匂い――緊張感に張り詰めた空気がいつまでも五感に残っている。

 ある日、祖父が手渡した私の竿に魚がかかったことがあった。ぶるぶると幾度となく震える手の感触、しなる竿の優雅とも感じられる曲線、何重にもリンクに弧を描くスケート靴のそれのように広がる水面の輪――緊張と興奮を一気に混ぜ込んだ数秒間の攻防……水面まであがってきたそれは、私の目には大きすぎてそのかがやく鱗のひとつひとつまでもがはっきりととらえられ、驚くしかなかった。祖父の手によって「たも網」にとらえられたへら鮒は上等なサイズで、「魚籠」に入るまで暴れまくった。
「おじいちゃん、釣れた――やったね」
「手がビクビクってしたか?」「うん」
あんなに嬉しそうな祖父の顔を、今思い出しても超えるものがない。
私はその後も祖父と一緒に「釣りの旅人」となったのだが、釣れたのはこの一度きりで、あとは祖父が釣り上げるのを見るのが専門となった。
釣り堀池の底なしとも思える深緑やその風景は決して好きにはなかった。それでも祖父に手をひかれて行ったのは、一度きり釣り上げた時の感動と高揚を忘れられなかったのと同時に、また釣り上げて祖父のあの満面の笑みを見たかったからかもしれない……が、二度と私の竿に魚はかかってはくれなかったのである。

 窓の外が賑やかとなり神輿の行列を取り巻いて歩く人々と、交通整理で警察官の鳴らすホイッスルの音が響き渡る。今日は下谷神社の例大祭だったらしい……八十八夜を十日ばかり過ぎたところだが、夕暮れ時に夏の気配を感じる。

 やがて祖父も亡くなり、自慢の和竿も祖父と一緒に天にのぼっていった……大人になった私はその釣り堀のあった場所を求めてその後、探しに行ったのだが、そこは砂漠の蜃気楼のように時が過ぎて跡形もなく無くなっていたのだった。

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