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【短編小説】原宿 Strange days

 今から振り返り思い出すと1980年は危険で奇妙な日々の連続だった。
15歳という大人でも子供でもない年齢を、当時の自分はめいっぱい背伸びして大人になりきろうとしていた。
仲間たちとのたまり場は総武線沿いのとある駅の近くだった。歩いて10分ほどのところにある先輩の親が所有していたマンションの一室で、リビングルームにキッチンと、たしか洋間が二つに和室があったと思う。
先輩の親はいつもいない……どこか他に住んでいるらしい。事実上の無法地帯と化していた。
部屋の中は煙草の吸い殻のたまった灰皿や、「やるのに使った」空き缶がそこらに転がり、仲間うちの数人は、つねに「らりっていた」。中にはそんなレベルを超えて「きまってしまっている」のもいた。部屋の中では大音量で「永ちゃん」か「クールス」のレコードを誰かがかけている。いつも大抵同じ曲ばかりの繰り返しなのでいやでも覚えてしまう。
同級生は5人ばかり、いつものメンバーと先輩が数人入れ替わり立ち替わりだった。中学の先輩がほとんどだったが、高校に行っているのか?働いているのか、働いていないのかはよくわからない。みたこともない年上が数人いる。お互い誰なのか、名乗ったりするきっかけがないから顔見知りになるしかない。女もよく出入りしていた。一様に濃いピンクの口紅と安っぽい甘い匂いのする香水とセミロングにサイドを流してセットした髪型――よくもこんな男のたまり場に平気でいられるなあと思っていたが、そんな女なのだ……男たちの目の前でストッキングを履き直す。なまめかしい脚と脱いで丸まったストッキング……履き替えるときに見える薄いブルーの下着……剥き出しのまま転がっているコンドーム……隣の部屋からは「やっている」声が聞こえてくる――だれかが、それを面白がって覗いている。
部屋のなかには、いつも灰色の空気が淀んでたまっていた。煙草の苦い匂いと、何人もの様々な体臭が入り混じったような匂い。それは昼間なのに薄暗い、カーテンを閉めっぱなしにした――ぬめりと舌にまとわりつくものを食べたあとのような不快で湿った空気感だった。私は途中でたびたび息苦しくなり、部屋の外の空気を吸いに階下に降りた。マンションの周辺はいつもどんよりと曇っていた――、いや、私の記憶のなかではいつも曇り空だっただけなのかもしれない。

  原宿にはよく行った。セーラーズのトレーナーを着た娘たちが闊歩しだす少し前の頃だ。先輩たちの所属していた「ローラー族のチーム」があった。私はこのチームの数名と「ロックン・ロールバンド」をしていた関係から、常に行動を同じくしていた。後の「チーマー」の走りだったかもしれない。ローラー族という場面よりも、ひごろチームでつるんでいた時間のほうがはるかに長いが、そこにいなくてはならない不文律がまちがいなくあった。
ローラーのチーム名は○○○エンジェルスとか言った。もう正式な名称は思い出せない。黒の革ジャンとスリムなジーンズ、紫色のスカーフが目印だった。女子はポニーテールに髪をまとめ、派手な開襟シャツにフレアスカート――メンバーは男女合わせて20~30人はいたと思う。私はローラー族のメンバーで踊るというよりも演奏をする方が主だったので、顔を出す程度がほとんどだった。代々木公園の夏の路上は灼熱で、路面に汗がしたたり落ちる。踊らないときは原則、しゃがんでいる決まりだが容赦なくシャンパンゴールドの斜光が肌を刺していく。カメラをかまえたギャラリーとも報道陣ともわからない連中もつねにその回りを取り巻いていた。ローラー族の中には芸能界にスカウトされるものも少なからず当時はいた。蝉時雨をかき消すように、デッキから流れる音楽が音量を超えて少し割れ響いている。

  パーティーが何度かあった。竹下通りを原宿駅側から進んでいくと中程くらいにあった洋食パブのようなレストランを貸し切りにして行った。
明治通りを、ややゆっくりとしたスピードで白地に赤の旭日旗をはためかせた街宣車が、ぬるい原宿の微風のなか、大音量で進んでいく。くぐもったその声はスピーカーのなかにうずくまるように、なにを訴えているのかはわからない。そのうしろからパトカーがついて走る。路上に停めたワンボックスから降ろしたフェンダー・ツインリバーブ・アンプやVOXアンプなどを台車に載せて私たちは歩道を押し進めた。流れる汗がTシャツの背中をあっという間に、ぐっしょりにしていった。
「革ジャンに着替えたくないなあ」
「昨日、黒Tシャツにしませんか?ってリーダーに言ってみたんだけど……聞き入れて貰えなかったよ」
いま売り出し中の「シャネルズのランナウェイ」がどこかから流れてくる。
大勢の人波をよけながら竹下通りをノロノロと押し進んだ。
「シャネルズの、あの原色の衣装いかしてるよなあ」
「俺はダンシング・オール・ナイトの、もんた&ブラザースの方がいいなあ」
「もんたのハスキーボイスが最高だよ」とローディーのSがいった。楽器などを運ぶローディーも毎回少なく、機材の準備や搬入に毎回追われた――自分たちでほとんどやった。
貸し切りのレストランは椅子とテーブルは脇に積み上げて、広いホールにした。正面ステージをつくり、そこで演奏をする。
私の所属するバンド名は「ルシール」といった。ボーカルは2名――ひとりは先輩でひとりは仲のよかった同級のNちゃん、ローラーに所属していた。サイドギターは同級のN、リードギターは私、ベースは先輩でリーダーのEさん、キーボードも先輩、ドラムは同級の中学で番を張っていたHという7人編成だった。
パーティーは踊るのが目的だったから、この日に限っては「甘いバラード曲」は一番最後の方のチークタイムくらいで、おもにノリノリのロックン・ロールナンバーを演奏した。「アット・ザ・ホップ」「リトル・ダーリン」「グッド・オールド・ロックンロール」などの曲に合わせて、人数に対しては狭い木製のホールの床が鳴り響き、レストラン全体が揺れ動くようだった。
3曲目の「アイ・ニード・ユア・ラブ・トゥナイト」の演奏が終わった頃、リーダーがバンドメンバーの紹介をはじめた。
私はアンプの上に置いておいた「ペリエ」を一口飲むと「うちのチーム以外のローラーも結構混じっているみたいだなあ」とサイドギター担当するNに話しかけた。
「ああ、いかしたツイスト踊るやつもいるね」
ここでの演奏はライブハウスで座って聴いてもらうよりも気分がよかった。自分たちの演奏で楽しんでもらえること――この頃、この喜びを初めて感じて、演奏しながらも身震いしたのを思い出す。
 この年のクリスマスパーティーの時は、私たちのバンド演奏の前に前座でリーゼントをきめた「ソロ」のロックン・ローラーがエピフォンのフルアコをかき鳴らしながら「ジングル・ベル」を歌いスタートした。さながら「エディー・コクラン」だ。
私たちのバンドは、ほぼほぼいつものナンバーを演奏してからは、クリスマスパーティーに合流して楽しんだ。踊るスペースが足りないほどで、レストランは溢れんばかりの人数――酔っ払って白いグランドピアノの上に立ち上がるヤツまで現れる始末――喧嘩が始まらなかったのが不幸中の幸いだったが、それ以来、このレストランでの貸し切りパーティーは封印された。いわゆる出禁である。

  80年はこの後も、六本木のライブハウスでの演奏などもしたが、今思えば原宿でのダンスパティーが一番楽しかった。こんな日々も学校を卒業すると自然に消滅していった。私はと言えば、この後、他県の私立高校に入学してからも「軽音楽部」でいくつかのバンドを経験するのだが、以前の仲間たちとのような濃密で時には危険で、色でいうと、よどんでくすんだ灰色な時期を過ごすことはもうなくなった。
極めて健全な高校生活とバンド活動は、時になにか物足りない――あんなにグレーで、危険で奇妙な日々、それなのに何もかもが新鮮で躍動していて心揺さぶられる日々――平和に感じる日々は平凡でスリルがなかった――そこにあったのは自分の中のモラトリアムと探し続けた正解のない理想との間で日々戦う時代の幕開けでもあった。

※この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。

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