結局パリ五輪見ないで終わる。
旅行中なので雑感。
閑話休題ほどでもない。
○○ウォッシュカンケーなく、見ない。
応援するのが可哀想なスポーツって。
そしてそれを正義の味方ぶって叩くなんて。
あれほどコロナコロナ言うてた東京五輪。
最後には感動をありがとうってどんだけ掌返すねん。いやいかん、いかん。意見を変えることは悪くない。訂正だから。過ちを認めることを悪くない。問題はこの先をどう生きるかだから。わかっていても義理人情だけで生きてきた人間からすればそこには違和感モリモリです。
というわけで今の悩みは訂正と義理はどうバランスをとるべきか?コロコロ意見を変える人をたたくか、ひとつの意見に固執する人を叩くか、いまはどっちも叩かれている。正直、意味が分からない。
叩くならどちらかを決めてほしいところ。
たぶん問題はどちらが正しいかではなく、どちらにも群がる「叩く連中」とどうつきあっていくのか?意見を訂正しまくる人もよし、義理で一つの意見に固執しまくるもよし、という「赦し」が一般化しない以上はこれに参画することはキケンでしかないと思う。
これが見ないという結論。昔の人は良いこと言った。触らぬ神に祟りなし。
難しいなぁSNS社会。
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