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モネ『睡蓮』に見るジャポニズム

クロード・モネは19世紀から20世紀初頭にかけて活躍した印象派を代表するフランスの画家です。代表作は『印象ー日の出』『積み藁』などで、「光の画家」と呼ばれるにふさわしく、繊細で、生命感の溢れる作品を多く残しています。

特に『睡蓮』は世界中、そして日本でも人気の作品であり、その風景は抽象的でありながらも、一度見たら忘れられないほどに印象的なものです。

今回は、そんなモネの代表作『睡蓮』と日本文化の関わりについて。

印象派の巨匠 モネ

19世紀以前、美術の世界は長い間鎖国状態にありました。フランス芸術アカデミーが主催するサロンに入り、お墨付きをもらった画家こそが画家であり、それ以外は画家ですらないと言われるような時代です。構図や描かれる対象に関してもフォーマットが存在し、画家自身が思った通りに描くということはタブーとされていました。伝統的な技法に則り、写実的に描かれた絵が求められていたのです。

そうしたお堅い美術の世界に風穴を開けたのは、「写真の誕生」でした。

現実の風景を寸分違わず、まったく同じように記録できる写真は、そうした写実的な絵を描いていた画家にとって非常に厄介な存在でした。理想的な風景をそっくりそのまま描く必要性が薄くなってしまったのです。写真が一般に普及していくにつれ画家たちは仕事を失い、アカデミーの画家たちはより一層保守的な作品ばかりを描くようになります。

一方で、アカデミーという呪縛を解き放ち、自分だけの表現を求めて新しい作品を生み出そうとする芸術家もいました。その画家たちはのちに印象派と呼ばれるようになります。

印象派と呼ばれるアーティストの作品は、文字通り、画家自身が見た景色を感じたそのままの姿で描いたものです。「印象」という言葉自体は、ある評論家が「これはまるで落書きだ。自分が見た『印象』のままに描いた作品だ」と作品を揶揄するような言葉を残したことから生まれました。アーティストたちはその言葉をあえて自分達のグループを表す名前にし、「印象」こそが描くべき対象であると宣言したのです。モネもそうした作品の中に自分自身を表現しようとする印象派のアーティストの1人でした。

モネの『印象ー日の出』という作品を見ると、印象派の画家たちが目指した芸術がどのようなものであったか感じることができます。

モネ『印象ー日の出』

水平線がなく、船や人物もシルエットとしか描かれておらず、全体的にぼんやりとした絵です。これではアカデミーの評論家に落書きの烙印を押されてしまうでしょう。しかしこれこそが、モネの感じた「日の出」の風景であり、私たちが感じるかもしれない景色だと印象派の画家は言うはずです。目の前に見えるものをすべて描き出すのではなく、画家自身の「印象」に基づいて取捨選択を行い、濃淡の調整をすることで、朝方の静かな海や薄く染まる空が絵の外にも広がっていることを感じさせる作品に仕上がっています。


浮世絵の「発見」・ジャポニズムの勃興

19世紀末から20世紀初頭、ヨーロッパの国々が産業革命を経て、世の中のあらゆるものが新しく生まれ変わり、まさに新時代を迎えていたとき、日本も同じように明治維新という形で時代の移り変わりを経験していました。17世紀から200年以上鎖国していた日本の文化は西洋の影響を受けず、まったく独自のスタイルを形成していたわけです。はじめて日本の美術や工芸品を目にしたヨーロッパの人々はそれらに驚愕するとともに、日本という未知の国に大変な興味を抱くようになります。

日本美術は西洋の人々に驚きをもって迎えられ、西洋の美術にも多大な影響を与えました。特に当時画家たちに大きな影響を与えたのが浮世絵です。

浮世絵は江戸時代に流行した日本独自の風俗画で、名所や美人画、大衆の姿など、庶民の生活を色鮮やかに描いたものです。

西洋の画家たちはこうした独特の色使いや画題に関心し日本美術を収集していったわけですが、飛行機もなく、簡単に地球をあっちこっち行ったりすることが困難な時代に、なぜ日本の浮世絵は世界中に広まることができたのでしょうか。

それには、日本における浮世絵の立場と関係があります。

当時の日本において、浮世絵は美術として認識されていませんでした。

浮世絵は大衆文化の一部であり、上流階級に独占されていた西洋絵画とは異なる存在であったのです。日常的に普及したものであり、現代で言うと雑誌とか新聞の切り抜きと同じような扱いを受けていたようです。ヨーロッパに日本の陶器が運ばれる際の梱包材として使われ、それが誰かの眼に留まり、結果として日本を代表するような美術品になったのです。

浮世絵がヨーロッパに大量に流入し、大ブームが巻き起こると、それを模倣しようとするアーティストが現れます。

『ひまわり』で有名なゴッホは、歌川広重の『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』をそっくりそのままコピーした作品を残しています。

ゴッホ『日本趣味 雨の大橋』

色使いやタッチからゴッホの存在が溢れ出てはいますが、その他の表現などは元の作品とそっくりです。特徴的なのは、雨の表現。雨を斜めの線で表現する技法はヨーロッパの絵画にはなく、雨自体を描くことも少なかったのです。ゴッホはそういった新しい表現方法を気に入って、真似しようとしたのではないかと思います。

雨の表現もそうですが、私たちは普段から日本美術を見る機会がそれなりにあるので、特にこれといって新鮮さというものを浮世絵から感じることはあまりありません。では日本美術をはじめてみるヨーロッパの人は何に関心し、それを真似ようとしたのでしょうか。それは浮世絵のダイナミックな構図、強いては、日本人の世界の見方です。


主観的でダイナミックな構図

ヨーロッパの画家たちが浮世絵を見て驚いたのは、その大胆な構図です。

歌川広重の橋の絵は、画面の3分の1ほどに橋が描かれているのも関わらず、橋全体は写っていません。同じように川も画面の半分以上を占めていながらも、その全容はわからないままです。このように、画題を画面いっぱいに配置し、ぶつ切りに描くというスタイルは日本独特のものでした。

歌川広重『大はしあたけの夕立』

逆に西洋の絵画においては、画面の中にモチーフを収めるのが原則で、水平、垂直を保ち、中心を必ず意識します。浮世絵のように対象物が大きく見切れるように描くことは少なかったのです。

ではなぜ、このダイナミックな構図は日本で広く受け入れられていたのでしょう。

一つの答えとなり得るのが、日本人の世界の見方です。

言語学には、言語と認知の関わりを明らかにしようとする認知言語学という分野があります。そしてその分野で研究されているものとして事態把握というものがあるのですが、その中で、日本語話者は主観的に世界を把握し表現する傾向があると考えられています。

それを象徴しているのが、俳句です。

古池や 蛙とびこむ 水の音
松尾芭蕉

この有名な俳句は、「古い池に蛙が飛び込み、音が鳴っている」という状況を詠んだ句ですが、この句が評価されるために重要なのはそうした客観的な情景描写ではありません。重要なのは、私たちが芭蕉が感じた情景や心情を追体験できること、没入感です。私たちはこの俳句を読む中で、池から蛙、そして水の揺れや音という順に意識を向けていきます。この視点の動きと没入感こそが俳句の醍醐味だと思います。

おそらく多くの外国人はこの句を聴いても、何が芸術的で、何が評価されるべきなのか全く理解できないでしょう。その理由は彼らが日本語を理解できないからではなくて、日本人のように情景に没入し、芭蕉の視点に乗り移るということに慣れていないからです。

こうした日本的な世界の見方は日本美術における伝統的な手法にも表れています。

狩野永徳『洛中洛外図屏風』

これは京都の市中とその周辺を描いたものですが、近くの家と遠くの家がほとんど同じお大きさで描かれており、その中間あたりに雲を入れることによって遠近の違和感をなくし、また距離感が出されています。西洋の絵画であれば遠近法によって遠くのものほど小さく描かれるでしょう。日本の絵画がこのようになっているのは、遠くのものを描く時は、自分の視点も移動させあたかも間近で観察したかのような視点で描くからです。

このように日本人は視点を自由自在に動かし、自分が感じた通りに世界を表現することに長けています。これが浮世絵におけるダイナミックな構図と関係していると私は思うのです。つまり、物理的な距離や大きさは関係なく、たとえ遠近法が崩れたとしても印象に残ったものは大きく描くことで、西洋にはない独特な構図の絵画が誕生するのです。

主観的でダイナミックな構図を見た西洋のアーティストたちは、自分達とはまったく違う世界の切り取り方に驚いたのでしょう。

まとめ

アカデミーに認められることが芸術家としてのステータスだった時代に、モネを代表とする印象派の画家たちは、伝統的な技法に囚われず、自分が感じた情景をそのままに描き出すという新しい絵画のあり方を確立しました。また、当時のヨーロッパで巻き起こった日本ブーム(ジャポニズム)が芸術家たちに大きな影響を与え、浮世絵の構図や色使い、さらには新しい世界の見方が西洋美術に導入された。

これらを踏まえて、あらためて『睡蓮』を見るとその「抽象的」な表現の背景にあるモネの思いやあしあとを感じることができます。

モネ『睡蓮』(1906年)

これは自説ですが、「リアル」の捉え方によってはこうした印象派の絵こそがリアルな光景を映し出したものだと言えるのではないでしょうか。私たちは世界を完全にフラットな状態で見ることはできません。それは、これまでの社会的な経験によって世界をある程度意味のある形で認識してしまうからです。なので、主観の介入しない客観的な事実としての「リアル」を捉えることは不可能と言ってもいいでしょう。それを踏まえると、印象派の作品はそうした主観的な「印象」を描くことで、人間が見る世界をより「リアル」に表現したものだと考えることもできます。綺麗な景色をスマホで写真におさめ、後で見返した時に、なんか違うと感じてしまうのは、画質が云々だけでなく、こうした理由があるからでしょう。

こうした話は、言語習得や概念体系など、ことばの機能とも密接に関わる問題であり、個人的にすごく興味があります。

今回のモネに関する話は原田マハ『モネのあしあと』幻冬舎文庫から
また認知言語学の事態把握に関しては池上嘉彦「日本語話者に〈好まれる言い回し〉としての〈主観的把握〉」人工知能学会誌26巻4号p.317-322

原田マハ『モネのあしあと』



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