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読書 LISTEN

今週は大好きな同僚とのお食事会がある。とても楽しみにしている。なぜこんなに楽しみなのか、以前読んだ本と絡めて整理してみる。

私のインサイト、年々深掘りされています。個性は強め。興味ある分野にどっぷり浸かり、その分野についての知見をさらに深めたいと思っている。
同世代の皆さんも自分の人生をしっかりと歩み、各々のインサイトは大いに深掘りされています。個性が立派に育っている。
子供の頃のように「これ話しとけば皆んな大体好きだよね」なんて共通の鉄板トークは徐々に減ってるのかもしれません。興味の有り様は人それぞれ。

40代も後半になって同世代同士の会話に変化を感じるようになりました。皆さん、立派な個性から湧き出る言葉は多種多様。それぞれに説得力があり、大変興味深くもあります。

でもそれが言葉と言葉のキャッチボールである会話となると、、、
あれ?
なんだ、この違和感は…
発信力が強すぎるあまり、実は相手の話を聴いてなくないですか?
聞く、ではなく聴く。

ちゃんと耳には届いてる。キャッチボールにはなっています。でも投げたボールをしっかり受け止め、その上で返してくれたボールなのかと問われればそうでもない。確かに私が投げたボールだ。でも手元に帰ってきたそのボールは似た異なる別のボールになってしまっていると感じます。

それを筆者は、受け止める対応、ずらす対応、と分類している。
分かりやすく例を書く。

受け止める対応
A「最近、元気ない?」
B「実は忙しくって寝不足でさぁ」
A「それは大変だね。何が忙しいの?」

ずらす対応
A「最近、元気ない?」
B「実は忙しくって寝不足でさぁ」
A「俺も忙しくってさぁ、昨日も……」

分かりやすいでしょ?
要は話のテーマを相手から奪ってるんだよね。相手の言いたいことなんてお構いなし。とにかく自分が話したい。

みんな大人になって自分に自信がついた。その成長した自分を知ってほしい。認めて欲しい。尊敬されたい。その為には自分をアピールせねばならない。よって私は話したい。だから私の話を聞け…
気づけば私の周りは主張ばかりの会話になっていました。

もちろん私も同類です。
私の話を聴け、私のインサイトを聴いて凄いと思え。我儘で自己中心的な会話が多かったこと、とても反省しています。良質な会話ができる話し相手ではなかったように思う。気づけば周りはチグハグなコミュニケーションばかり。当然、私の聴いて欲しい欲求は満たされない。相手の欲求も満たされてはいない。

今度お食事する私の同僚は27歳の女性。素晴らしい方だ。学びに熱心でいつの間にか色んなことを習得されている。そして驚くべきはそれを全く発信してこないのだ。

なんで??
答えは予想できる。もともと大っぴらげに自分の事を語る方ではないが、傾聴の姿勢を取ることが良質なコミュニケーションの礎になる事を直感的に理解されているからではないか、と思う。
自分が恥ずかしくなってきた。

彼女のように自己承認欲求を一旦脇に置き傾聴の姿勢を手に入れたとする。相手の話したい欲求を満たしてあげれると共に、相手をより理解し深く共感できるかもしれない。
私はそんなコミュニケーション相手が欲しい。おそらく皆んなそうであろう。であればその傾聴の姿勢こそが真の友人を得れるための道筋ではなかろうか。

彼女を相手に私は傾聴の姿勢を試みる。彼女は手強い。なかなかオープンに自分のことを話さないであろう。でも私がその態度を取ることが、より良質な同僚関係を築くと信じている。

このようなことから私はお食事会をとても楽しみにしている。

だからなんだ?
デート自慢か?
と言われそうだか文章にしてみたくなったので書いてみました。

ありがとうございました。
おやすみなさい。

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