家が、家が、燃えちゃう!
あれは、30数年前になる。
日々、うだるような酷暑が続く真夏の昼下がり。
一軒家の8畳ばかりのリビングには、床に固定された高さ1メートルの吹き出し口から冷気を出す、当時としては結構高そうな冷房専用のエアコンが設置されていた。(借家の備え付けである)
数日前から、このエアコンの効きが悪くなった。あまりに暑いので効かないのだと思いながらも、フルの最強モードで運転し続けていた。
腕枕をしながら、エアコンの横にあるテレビを見ていた。
その前を、ようやくハイハイし始めた6カ月の息子が、ツノが生えた赤鬼のぬいぐるみとじゃれあっている。
突然、
「ボン!」という音がする。
目をその音にむけると同時に、エアコンの横に立て掛けてあった子供用の蚊帳が、あっという間に燃え上がった!
床から天井まで一瞬で火柱が上がる。
開いた口がそのままで、ボーぜんと眺めるだけ。
「か、火事や!」
やっと声が出る。
その声を聞き奥様が飛んでくる。
「消火器はどこ?!」
「そんなもんあるかい!早く子供を連れて外に出ろ!近所に大声で火事だと言って来い」
と叫びながら電話機を取り、生まれて初めて119番に電話をする。
今では、こちらからどこに電話で問い合わせても、決まって長いコールの後
「只今大変混み合っています。しばらくしてもう一度お掛けください」
と乾燥した録音された声が流れる。
が、さすが消防署、そんな事は言わず直ぐに出る。ま、当たり前だが。
しかし、なんと、こちらは言葉にならない。
目の前は火の手で真っ赤、頭の中は真っ白、ではなかった。
明日の新聞には我が家の名前が出るな。
隣の家に延焼したら賠償せんといけないだろう。
会社にはどう言おうか、などなど、火を見ながら色々な事が頭の中を駆け巡る。
不思議に、この状況下において、今そんなこと考えてどないすんやということが、頭の中で洪水のように広がる。
受話機の向こうで
「住所と名前を言ってください」
と言っているが、
「火事!火事です!」としか言えない。
「住所は?」
と、向こうも叫んでいるが、自分の家の住所すら言えず、
「アウアウ」
驚くことに、名前すらも口に出せない。
もしもの時、電話口に自分の住所と名前を書いておけと言われたが本当だった。
家の中で見る目の前の火は、ますます大きくなり、
『こりゃあ消防車が来る前に燃えてしまうわ』
と思った瞬間。やっと、助けを待っている時間なんてないわと初めて気付く。
受話機をそのまま投げ捨て、風呂場に向かう。
今思えば本当に運良く、昨夜の風呂の残り湯が捨てずに残ったままだった。更に小さな洗面器ではなく子供用のタライもあった。
もう俄然、勢いづく。
必死になってタライに風呂の残り湯を汲み、半分はこぼしながらもリビングに運び、燃え盛る炎にぶっかけた。
5、6回往復したろうか。途中、まるでドリフのコントのように2回は濡れた床に足を取られて転げ、自分自身が水をかぶるはめになった。
今では笑えるが、その時は必死である。
そして、火は消えた。
身体中を濡らして床にしゃがみ込んでいると、にわかに、近所の人々が消火器やバケツを持ってやってきた。
ようやく我に帰る。
真っ黒に焦げた壁、天井、窓のカーテン、床には先程まで赤ん坊がじゃれていた鬼のぬいぐるみと、風呂場で遊んでいたお気に入りの数匹のアヒル達が水浸しの中で焼け転げていた。
ふと外れたままの受話機に気づき、電話台に戻す。
と、直ぐに電話が鳴り響く。
消防署からである。
『ほ〜、かけたこちらの電話番号も言ってないのに分かるんだ』
と妙に感心した。
言っておくが今の携帯電話ではない。ナンバーサービス等無い時代である。
かかってきた電話に、もう火は消えたと伝えたが、10分後には、わざわざ、けたたましくサイレンを鳴らしながら二台の消防車が到着した。
事情を説明する。
エアコンのコンセントから発火し、丁度そこに置いていたナイロン性の子供用蚊帳に火が移り、あっという間に燃えた。後は床の絨毯、カーテンに燃え移ったと興奮しながら説明する。
約一時間、事情説明をした後、原因を調べるので出火元のコンセントを持って帰っていいかと同意を求められる。
そんな事はどうでもいいが、本当に火は消えたのか?また、壁の中で火が再度燃えないのかと消防士に尋ねた。すると
「それはわかりません」とえらくはっきりと答えるではないか。
「ええ!じゃあどうすればいい?」
と聞くと
「一時間ごとに壁に手を当てて、熱くなっていたら、まだ火が残っているということです」
とえらく自信を持って言うではないか!
アホな。鎮火した、しないかは消火のプロが判断するんじゃなくて、俺が一時間毎に調べないといけないのか?と質問しようとすると、今度は警察がやってきた。
同じように始めから事情聴取、もう当たりは暗くなっている。
消防、警察の次は電気会社、都市ガスが来て、何度も一から同様の説明を繰り返す。
こうなるんだったら、最初から録音しておけば良かったと後悔する。
もちろん、説明が終わる度に、壁に手を当てる確認は怠らない。
最後は保険屋が大家と一緒にくる。
ようやく落ち着いたのは、次の日になっていた。
長い長い一日が終わる。
翌朝、消防署に出頭せよということで、会社は休むことにした。
庭には昨日の残骸が、無残な姿で山積みされている。
黒く焼け焦げたカーテン、絨毯の横にはぐっしょり濡れた赤色ではなく黒くなった鬼のぬいぐるみ、火で溶けたアヒルのおもちゃが転がっている。
その持ち主は、それを見て何があったかも理解できず、以前より風貌が変わったものの、また、つかんで遊ぼうとしている。
良かった。
一歩間違えれば、自分達がこうなっていたのではないかと感じた。
消防署に行くと中学の同級生がいた。
「昨日、管内でえらく騒いでいたがお前の家だったのか」
と驚く。
同級生の言葉によると、家の天井が燃えると、自分の力では火を消す事はまずできない。なので、天井に火が燃え移らないようにする事が第一だという。
つまり、天井に燃え移るカーテンに火がついていれば、多少火傷をしてでもカーテンを引きちぎって、下に落とす事が重要だという。
床や地面に自分より下に落とせば、消す事は容易になるが、上にある天井が燃えると消火は困難だと教えてくれた。
更に、火元は意外と見た目より下にあるという。確かに炎は天井まで届いていたが、実際に燃えているのは蚊帳やカーテンであった。
なるほど、水をかけたが天井にまでは届かなかったし、そもそもまだ天井が、燃えているわけではなかった。
適切な初期消火がいかに大切であるかを知る。
それと、
火が出た時、その場所にいたので火事だと直ぐに気づいたが、5分でも別の部屋にいて気づかなかったら、、、
風呂に残り湯やタライが無かったら、、、
赤ん坊を抱いて逃げる奥様がいなかったら、、、
と思うとぞっとした。
様々な幸運が重なったことにも助けられた。
消防署から帰る途中、消火器とお気に入りの鬼のぬいぐるみを買いに行った。
しかし残念ながら、同じぬいぐるみを見つけることはできなかった。
息子へのお土産は無かったが、買った赤い色の消火器を玄関に置くと、息子が笑いながら消火器に抱きつこうとする。
「ぬいぐるみとちゃうで」
今後、絶対にこの消火器を使うことがないようにしないといけない。
そして、
もし、万が一、
目の前で火の手が上がったとしたら、
まずは、
落ち着いて、
深呼吸をしようと思う。
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