斜め前の席
この高校は時間にとても厳しかった。
毎日、生徒の遅刻調査をする。
8時20分までに校門に入っていないと、遅刻とみなされ、次の日から一週間7時30分までに登校しないといけなくなる。
自転車を猛然とこいで、校門に向かう。
が、目の前でガラガラと無情にも正門を閉じられた。
その横に一人が通れるほどの小さなドアがある。立っていた一人の教師が、黙って赤い紙を渡す。
別名、『赤紙』と呼ばれた遅刻報告書だ。
そこに、名前、クラスと到着時間を書く。
8時22分
『くそっ!たった2分かよ』
と舌打ちしながらも、書き込んだ赤紙を提出箱の中に放り込む。
次の日、7時30分に遅れると、さらに早朝登校がもう1週間延びることになる。
ここは、是が非でも間に合わなければいけない。
昨日、赤紙を渡してくれた教師は、今日は開いている校門の前に立っていた。
「おはようございます!」
わざと大きな声で挨拶し、早朝登校者名簿に名前を書く。
そのまま自分の教室に行っても、朝から勉強する気にはならないので図書館に行く。
図書館の入口には、新聞と週刊誌が用意され、一人掛けのソファが8脚ばかり置いてあった。
ただ、この日、あいにく座るソファの席は既に一杯で、仕方なく、一冊の週刊誌を持って図書館の奥に入った。
四人掛けの片隅に一人の女の子が、教科書を開き勉強をしていた。
引き寄されるように、その斜め前の席に座る。
咄嗟に、持ってきた週刊誌ではなく、カバンから教科書とノートをとり出す。
すると、ノートの間から1枚のプリントがぱらりと落ちてくる。
『そういえば宿題が出ていたっけ』
あわてて、プリントを広げ教科書を見ながら書き込む。
『危ない、危ない、忘れるところだった』
ほっと書き終わり顔を上げると、ちょうど、その女の子と目があう。
おかっぱ頭で眼鏡越しの女の子の瞳は、そのまま自分のノートに落ちていった。
『助かった。この子がいなければ、このプリントは忘れられたまま、へらへらと週刊誌を見ていただけだった』
朝のホームルームが始まる時間が近づいたので、書き上げたプリントをカバンに突っ込む。
女の子はまだ、机の上のノートにシャープペンを走らせている。
音をたてないよう、腰掛を机の下にゆっくりと納めていると、女の子が顔を上げる。
一瞬、目が合う。
軽く会釈をした。
本当は、『ありがとう』と言いたかった。
すると、ちょっと驚いた様子で、女の子も少しだけ頭を下げた。
次の日。
昨日読まなかった週刊誌を選ぶこともなく、図書館の奥に入った。
その子は、昨日と同様、同じ席にいた。
なぜか、胸の鼓動が高まった。
しかし、昨日座っていた斜め前の席には、既に他の男子生徒が座り、4、5冊の参考書を広げていた。
その机には、女の子の横の席も、正面の席も空いていた。
が、そこに座る勇気はなかった。
誰もいない別の机についた。
ただ、こちらから女の子がよく見える席だ。
教科書を広げることもなく、机に腕組みをしたまま頭を乗せた。
周りのザワツキから、はっと気づき目を覚ます。
急いで、女の子の方を見るが、既に、その腰掛には誰の姿もいなかった。
次の日。
昨日より、30分も早く図書館に着いた。
早すぎたせいか、ちょうど、図書館の扉が開いた時だった。
当然、一番目に入ったので、どの席にも誰もいない。
なぜか、落胆する。
最初の日に女の子を見かけた、同じ席に着く。
教科書、ノートを出すが、ちらちらと誰もいない斜め前の席を見るだけだった。
しばらくすると、一人の男子生徒がやってきて、その席に座ろうとする。
あわてて、
「ごめん、そこに、もう決まった子がくるんや」
と言うと、怪訝そうな顔をして、よその席に移った。
いつの間にか、8時を過ぎていた。
そろそろ早朝登校ではない生徒が登校し始める時間だ。
話声のしない図書館の中だったが、俄然ざわつき始める。
『もう来ないのか』
とうとう、斜め前の席は見知らぬ女子生徒が座った。
『早朝登校の期間が終わって普通の時間に登校しているのか。
それとも、病気になっちゃった?
名札は何組か見えなかったけど、同じ学年の色だった。
もっとよく見ておくんだった、、』
早朝登校最後の日。
あれから、女の子を見かけることはなかったが、座る席はいつもあの決まった、斜め前の席だった。
『今日が、最後だ』
今日も来ないのかと思いながら、見もしない広げた教科書をぼうっと眺める。
斜め前の席には、誰も来ない。
ふと、後ろの方で筆箱か何かが落ちる音がした。
なにげなく目を向けると、そこには、あの女の子がいた。
目があった。
すると、女の子は
『すみません』
と、声にださないよう口を開き、軽く会釈をした。
あの時の、眼鏡越しの瞳と同じだった。
そして、落とした筆箱を拾いあげ、また机のノートに何か書き始めた。
『来てたんだ』
一瞬、頭がかっとした。
『今日が最後だし、どうしよう』
まもなくホームルームが始まる時刻だ。
カバンの中に教科書、ノートを放り込む。
そして、女の子がいつ席を立ってもいいように、見ないように、でも気配はしっかり観ている。
どうやら、席を立ったようだ。
こちらもカバンを持ち急いで席を立つ。
素早く、しかし走らないよう後を追いかける。
図書館の出口に近づいた。
真後ろに来た。
声をかけようとした瞬間、
女の子が急に振り向く。
「佐藤くん!じゃあ、また明日ね」
声を掛けた相手は、自分ではなく、いつの間にか隣にいた男子生徒だった。