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アニメ『屍鬼』/神学論争/共同体論 


導入:神から見放された者の救済

小野不由美原作『屍鬼』は、ホラーの体裁を取りながら、氏らしい鋭い人間観察が随所に出ている作品だ。私はごくわずか氏の作品に触れたにすぎないが、彼女の作品の根底に一貫して主人公の「孤独」というテーマがあるのは間違いないだろう。『屍鬼』では、この「孤独」の形が、人ならざる「屍鬼」の苦悩を描くことで私たちにより強く訴えられる。彼らは「神に見放されている」のだ。今回は、アニメ版『屍鬼』の描写を分析して「神に見放された」孤独と向き合っていきたい。

神に見放された者たち:何から疎外されているのか

誰が神に見放されたか、という観点においてこの記事で主人公として扱いたい人物は二人いる。「屍鬼」の少女である沙子と、彼女に慕われる作家、室井静信である。

沙子は作中の屍鬼たちの中心人物であり、孤独感をたびたび吐露している。「屍鬼は神に見放された存在」という表現は彼女によるものだ。一方で静信もまた、かつて自ら腕を切り自殺未遂をした過去があり、本人は半ば無自覚ながら、舞台となる「外場村」からの疎外感を持っている。

沙子は、作家である彼の作品の読者であり、静信は自分と同じく「神に見放された者」だと推測して親しげに静信とコンタクトを取ることで二人の関係は始まる。

では、彼らを見放す「神」とは一体何なのか。それは、「善悪の執行者」「共同体を象徴するもの」という二作用をつかさどる存在である。

以下、作中から引用する。

「やっと、自分を捨て去る決心が付いたの。神に見放された者は生きているべきではないのよ。」
「沙子、僕はこうなって初めて分かったよ。神はいつでも何も言わないものなのだよ。そして、神の沈黙と生きること死ぬことは関係がないんだ。それだけじゃない」
「君は世界から孤立したとき、同時に神の範疇からも除外されてしまったんだ。君を守る者はない。罪をとがめられ、弾劾される資格すらないんだ。」
「ひどいわね」
「にもかかわらず、君は神への信仰と思慕を捨てきれずに、生き続けてきたんだね」
「悲しすぎるわ」

アニメ『屍鬼』第22話

以上の会話では、沙子たち屍鬼が人を殺した罰を下す存在=「善悪の執行者」として「神」が語られる。もう一つの側面、「共同体の象徴」については、屍鬼が仏像を恐れること、また、沙子と静信の会話から「神への信仰の背後にある、共同体としての人々」が怖いのだ、という描写が示すものである。

屍鬼が共同体から外れた存在であることは、「故郷喪失者」としての孤独感につながり、沙子たちが屍鬼だけの村を作ろうとした動機となっている。また、人間から屍鬼となった者が「招待を受けないと元の家に入れない」という性質はこのことを端的に表した寓意を持つ。

人々が求める「神」:『カラマーゾフの兄弟』

神という存在の有無と善悪の判断、そして信仰者としての人を考えていく上で、ここで古典として『カラマーゾフの兄弟』を挙げたい。取り上げる部分は第五編の五章、「大審問官」である。

この章のあらすじとしては、キリスト教の信奉者アレクセイに、兄である無神論者のイワンが自作の叙事詩を語って聞かせる会話が中心となり、その叙事詩の題が「大審問官」である。

叙事詩の内容は、十六世紀、異端審問と称して処刑や魔女狩りを繰り返す大審問官(宗教上の役職)の前に、イエス・キリストが再び姿を現すが、大審問官はイエスを相手に自らの行いを正当化して語って聞かせ、最終的にはイエスまでもを処刑してしまうというものである。神学論ともいえる会話の中で、大審問官はイエスの失敗を以下のように指摘する。

【人々は「良心を安らかにするための確固たる基盤」(善悪の判断)と、「みんながいっしょにひれ伏すことのできるような対象」と(「跪拝の統一性」)を求めていたのに、イエスは彼らを支配することを拒み、かれらの「自由」を尊重してしまったのだ、と。】

自由であることの不安におびえた結果、人々は、処刑を繰り返すような大審問官にカリスマを求めて、本来のイエスの意志に背くことになってしまったというのだ。この民衆たちの、ひいては確信犯的な大審問官の、「神への反逆」は『屍鬼』の物語を解く上でも重要となるが、ここでは触れないでおく。この話では、イエスが大審問官の前で沈黙を貫いている点も、『屍鬼』本編と連関があり興味深い。

本筋に戻ると(閑話休題、物語シリーズ)、神の役割として求められるのが、「善悪をつかさどること」、「象徴として人々を共同体にまとめること」であると読み取れるだろう。ただし、「善悪の基準を示す」(大審問官)のか、「善悪にもとづいて罰を下すのか」(沙子から見る神)のか、という定義の揺れに関しては、後の章で詳しく分析したい。

『罪と罰』『沈黙』:それでも誰か赦して欲しい

『屍鬼』作中の「神」の解釈について述べた次は、沙子が求める救いの実体を考えていく。以下、先程引用した会話を再度引く。

「沙子、僕はこうなって初めて分かったよ。神はいつでも何も言わないものなのだよ。そして、神の沈黙と生きること死ぬことは関係がないんだ。それだけじゃない」
「君は世界から孤立したとき、同時に神の範疇からも除外されてしまったんだ。君を守る者はない。罪をとがめられ、弾劾される資格すらないんだ。」
「ひどいわね」
「にもかかわらず、君は神への信仰と思慕を捨てきれずに、生き続けてきたんだね」
「悲しすぎるわ」

今回注目したいのが、「罪をとがめられ、弾劾される資格」という表現である。なぜそのことが沙子にとって重要だったのか。それは、「人を殺した罪」が赦される、ひいては「屍鬼」である自分の存在が赦されるには、「罰」を受けることが必要だと、沙子は考えるからだ。

「罪」の赦しに「罰」が必要である、という半ば普遍化している事実は、ドストエフスキーの代表作『罪と罰』で全編を通して描写される。なぜ、罰が罪の赦しとつながるのか。そこに何らかの理屈を挟むことは難しい。しかし、罪の精算には第三者的な介入が必要であり、その第三者こそ、屍鬼が持つことができない「共同体」の機構だと捉えると理解しやすい。

例えば現代の司法制度をイメージすると分かるように、犯罪者を「裁く」という作業は、弁護士と法廷を用意するなど、犯罪者を「司法」という秩序に組み入れて行われることである。裁判と罰の差異はあるとしても、「罰」=「それを定める秩序」という循環的な関係の二つがそれぞれ犯罪者に及ぼす働きをとどめておきたい。

ここで他に、神の沈黙について考察の材料となる書籍を引きたい。遠藤周作の『沈黙』である。

本作は、江戸時代、禁制のキリスト教を信じる日本人信徒たちと彼らを導くことになるポルトガル人神父、そして信徒たちを弾圧し捕えようとする幕府の役人たちの物語である。作中、信徒たちがつかまり拷問にかけられる。「神は助けに来ないのか」と笑いながら、役人たちは信徒を人質に取るかたちで、神父に対して棄教をせまる。

神父は最終的にキリスト教を捨てるが、今注目したいのは、この「元」神父に物語のラストで、「赦し」を求めに来る人物である。「キチジロー」と表現される彼は、信仰心が弱く、棄教しては何度も仲間を役人に売り、神父自身も彼の裏切りで役人に捕まった経緯がある。その卑怯者のキチジローが、それでも良心の呵責に耐えられず、今はキリスト教を捨てた「元」神父のもとにきて赦しを請うのである。そして元神父は、自分が既にキリスト教から離れた身であるのを自覚しつつ、「あなたの罪は赦された」と伝えるのだ。

今取り上げたいのは、「棄教」という罪を犯した元神父にこそキチジローが赦しを請いに来たということである。元神父が「神父」であった頃は、キチジローは彼と関わりつつもそのような行為はしていなかった。自分と同じ罪を犯した者にこそ赦してほしいと願う構造は、自身と似た境遇にいる者のみが苦しみを理解してくれるという回路によってできている。これは、『屍鬼』において「沙子」が、同じく「神に見放された者」と考えた静信に接近し、物語ラストで人狼となった静信と沙子が二人で逃亡する形との相関が認められる。

ここで留意しておきたいのが、キチジローが求めたのは元「神父」の赦しであり、沙子が心の拠り所としたのは「未だ人間だった頃」の静信である、という点である。自分と全く同じ共同体にいる者ではダメだったのだ。ここには一種の「超越性」、自分の属する共同体の「外部」への志向があるのではないかとも考えられるが、ここではそれについては議論をしない。

まとめると、本来外部の存在でありながら、自分と同じ苦しみを分かち合う者にこそ赦しを請いたくなるという性質が一般に見られ、沙子も静信にそれを求めていたのだと解釈できる。そしてこの「赦し」こそ「神」の側面の一つである「善悪の執行」に他ならない。そのような意味で沙子は静信に対して「神」の役割を一部分において仮託していたのだ。

(もう一つの側面、「共同体」については「家入集落」で屍鬼の村を作ろうとしたことがそれにあたるだろう)


死に包囲された村の掟:「法」もしくは「秩序」

今まで屍鬼である沙子が神を求める理由を探ってきたが、ここで話を外場村に移したい。「善悪の判断」「共同体」というモチーフを好悪両面で表しているのが外場村に住む人々であるからだ。

共同体という側面については、血縁的、地縁的繋がりを考えれば当然のことである。

「善悪」については、アニメ最終話で、沙子を追い詰めた大川富雄の言葉に端的に表される。曰く、「若い者は年寄りより先に死んではならない、新入りは近所にあいさつに行く。これが外場村という小さな村を守ってきたルールなのだ」。民俗学的見地から見た場合、重要な指摘がここにはある。外場村のような古式ゆかしい共同体では、その存続および秩序の維持が重要だった。そして、そのような基準における「善悪の判断」が「善悪の執行」にまで急進化したのが、屍鬼狩りの実体だったといえる。

さらに付け加えておきたいのは、死にかけの小さな村の「共同性」は内と外に牙をむく、という点だ。「大きな物語」を持たない本質的に無根拠な共同体は、その脆弱さゆえに内部での誤配を許さず、外部に対して攻撃性を持つ、と『ゼロ年代の想像力』で宇野常寛は指摘する。

宇野によれば、90年代後半、政治的イデオロギーや経済成長などの、それまで人生の価値指針を示してくれていた「大きな物語」の喪失に直面した人々は、積極的な社会行動に依らない「自己像」の承認を求めて「特定のカルチャー」など様々な「小さな物語」(例えばオタクやカルトなど)を共有する小さな共同体に依存するようになった。その共同体は、「大きな物語」などの確固たる存在根拠を持たないために脆いつながりであり、かえってそのコミュニティの維持のために、共同体内の異端の排除(誤配をなくすこと)と他の「小さな共同体」への攻撃を激しくする、というのだ。

この宇野の指摘は、『屍鬼』を語る上で注目に値する。外場村という共同体が物語開始時点で、その消滅の危機に瀕していたからだ。尾崎敏夫の妻、尾崎恭子が村外の市街地でアンティークショップを営んでいることからも分かる通り、国道に面する外場村は、国道幹線道路沿いにモールなどの商業施設が作られ市街に人口が流出する時代の潮流と無縁ではいられなかっただろう。『屍鬼』の原作書籍が出版されたのが1998年であり、この時期は、宇野が上記のように指摘する「共同体」が生まれていったまさにその時代なのである。外場村は古く江戸時代から続く村だが、時代の潮流によって90年代後半的な共同体に典型的に見られる脆弱さに直面していたと言える。

長くなったが、この「脆弱さ」から来る内部への取り締まりと外部への攻撃はそれぞれ、「静信自殺未遂の動機=村秩序への反発」と「屍鬼との抗争=大川富雄のセリフのロジック」に現れていたと確認して次に進みたい。

(清水恵も村秩序への反発という点では静信と一致しており、主要人物の中で、屍鬼闘争の初めの犠牲者、発端となったのが彼女だったことは、この物語の構造を如実に暗示している)

作中における対立:屍鬼vs外場村 その真相

これまでの章で、「神の役割」「罪の赦しの条件」「外場村という共同体」について考えてきた。これらを物語プロット上でまとめてみる。

  • 屍鬼たちは、「善悪の審判者」「共同体の象徴」である「神」から見放されている。そしてそれらを求めている。

  • 外場村は消滅の危機にある弱い共同体であり、「内部の統制、異端排除」「外部の共同体への攻撃」をして存在を保つしかない。

  • 室井静信は、村の「内部統制」に内心で反発している(自殺未遂)ので、外場村という共同体にいながら疎外されている=「神に見放された者」である。だからこそ、「屍鬼」たち(沙子)の「善悪の審判者」たり得る。

補足しておくと、屍鬼狩りは「屍鬼」と「外場村」両集団がそれぞれ持つ「善悪の判断」「共同体の形成、維持」を賭けた戦いであるため、例えば屍鬼たちは、村人に殺されることを「罰が下りた」と感じることは無いのだ。

室井静信の出した答え:キリストからアンチヒーローへ

いよいよテーマの本質、神に見放された者の「救い」の顛末が作中でどの様になったかについて考えていく。アニメ最終話にて、人狼となった静信が大川富雄を殺害し、沙子を連れて逃亡する結末である。本稿2章で引いた二人の会話がなされるのもこの回である。

端的に言うと、静信は一度、自身に善悪の審判を求める沙子のために命を捧げてイエスのごとく「神」として死んだ。そして人狼として復活したのちは彼女の意志に関係なく彼女を救い世界と敵対するアンチヒーローとなったのだ。

物語終盤、兼正の屋敷に自ら赴き沙子に血を分けて死に至る静信の姿には、自ら捕縛され人類の罪を背負ったイエスが重なる。「これはあなた方のために流される、私の血である」。そして特筆すべきはやはり引用した会話の中で静信は神の沈黙を指摘し、「生きているべきではない」とこぼす沙子を連れていくのだ。これは、『カラマ- ーゾフの兄弟』の「大審問官」さながら、神の沈黙と無力に見切りをつけたと言えるのではないだろうか。

そして、「罪を犯した者のみが持つ、赦しの資格」についても『沈黙』を引用して述べてきた。ここで踏みとどまって考えたいことがある。『沈黙』でキチジローに赦しを施した元神父のように、静信は沙子を救い得たのだろうか。
『沈黙』を引用したのは執筆者なのだが、ここで敢えて異なる意見を挙げたい。つまり、静信は沙子をそのようには救えなかったのだ。根拠はやはり、静信が大川富雄を殺害したことだ。のちに交わされる会話の中で沙子が、「生きているべきではない」とこぼすことになるが、これは静信に罪を犯させてしまったことを悔いたからでもあるだろう。

そして逃走は静信にとっても、彼自身の救いとは異なる選択肢となっている。静信が神に見放されているのは、自身を殺したくなるほどの「村秩序への反発心」に現れていた。だが、もう外場村は崩壊して山火事で燃え尽きようとしている。これでもう反抗心は解消されるはずだったのだ。逃走という行為は「共同体への反発」の初志からずれている。

ここからは推測、もしくは可能性の指摘になるが、「神」に見切りをつけた静信と沙子のこれから歩む道は限りなく暗いだろう。屍鬼と人狼の二人で逃亡を続けた先に未来は見えない。対他的な「神」、自身が属する「共同体」を持たないことの恐ろしさについては、本稿を読んできた読者なら共感してくれるだろう。

静信逃亡の真相:闇の中へ。救われることの無い者として。静信の過ち。

「殺したのは彼, 殺されたのもまた彼自身だった。 弟は彼の絶望の中から生まれた。 そして彼はその 絶望によって, 弟と自己とを殺傷したのだった。

アニメ『屍鬼』第二十一話

静信の書く小説『屍鬼』の一節である。
この「兄」と「弟」の逸話では、自身の悪の側面が表出し、それに従う主人公が描かれる(悪人格の「兄」に、死して屍鬼となった善人格の「弟」はついていくのだ)。作者静信においてもこれが真に実現されるのは「屍鬼」になってからである。「弟と自己」を殺傷した、との表現は静信の現在、もしくは行く末を暗示させる気がしてならない。

この記事では、「神」というものに人々が見出すもの、物語経過と二人の主人公に着眼してきた。

「沙子」「静信」二人の悲劇的な行く末を執筆者は予想する。その結論に至って感じたのは、人間という生き物である限りにおいて置かれる一つの理である。対他的な「善悪判断」「共同体」というものは、生きることの本質ではない。しかし、それらと切り離され、客観的な立ち位置から、完全に距離をとって「生きていく」ことはできない。ここに「人間」という生き物の悲劇的とも言える何かがある。

人間を描写するものである以上、小説/物語の形をとっても「人間の理」を飛び出し得ない、違う「生」の在り方を表せない。そんなフィクションの、それ以上に現実の臨界点をかみしめつつ記事を終えていくことにしたい。

最後に、ここまで長い記事を読んでくださった読者に感謝を込めて。

補遺:「外部」と人間/委託すべき何か。繋がりつつ繋がらないこと

「神」というものに見出される「超越性」、「外部への志向」について少しだけ考えをまとめたい。

「旧態依然の古い秩序一色の外場村」「神の秩序に支配された楽園」は「外部」が存在しないために、「静信」や「悪側面としての兄(カイン)」という形でいびつさが表出してしまった。このような「外部」の不在は、「死」という概念をもってすると、また一解釈できる。すなわち、「死」という外部=超越が存在しないことの悲劇は、「死から復活し不死身となった」屍鬼にも存在しているだろう。そう、家族を探して彷徨い続けた沙子は「終わりなき日常」「死ぬことができない生」に苦しめられていたのではないだろうか。

共同体とは多くの他者の集合である。その意味では近代的個人にとって「外部」となるだろう。その一方で、共同体に身を置くことは、程度の差はあるがその秩序に身を投じて自分への「抑留」「脱色」に直面することでもある。これは「内部への力」であり、「外部」を遠ざけてしまう。そのような苦しさの狭間にいながら、「繋がりつつ繋がらない」そんな人間の生き方を執筆者は夢想している。

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