家のまわりにある「生活」を眺める。
どんなに家でも、そこに住む人たちの「生活」が垣間見える。
我が家は、古い住宅地のなかに、5軒ほどで身を寄せ合って建てられた、某会社の集合体だ。
ほかの4軒は違うのに、うちだけ木造。
外観も他の家たちは皆四角いのに、うちだけシルバニアみたいな形だ。
そんな同じメーカーの似たような家々でも、玄関先には、そこに住む家族の「生活」が見える。
たとえば、隣の家の玄関には、小学校でお馴染みの、青い鉢植えが置いてある。
もうとっくに枯れてしまったアサガオ。
ツルが支柱に巻きついて、そのまま物悲しく置き去りにされている。
そのすぐそばに、ピンクの自転車。
そこに住む、小年生の女の子の顔が浮かぶ。
ドアの横には、生協の箱が積まれている。
そのお家は車を持たないので、お買い物はコープを使っているのかも。
反対隣の家は、洗濯物の千し場が、ちょうどうちの玄関から見える。
以前は大きな目隠しカーテンがしてあった。
でも、いつぞやの突風で外れてしまった。
直すこともなく、カーテンはそのまま置かれたままなので、たまに洗濯物を干す奥さんと目があって、互いに照れ笑いする。
お向かいの家は、大変美しい。
植え込みの木々たちは、毎日欠かさず手入れされている。
お花のあいだから、ピョコンと見えるウサギの置物。
まるでハウステンボスみたいだ、と行ったこともないのに勝手なイメージで想像する。
木々も花も、そこの奥さんが手入れしている。
いつもニコニコと優しい奥さん。
おでこを出して束ねられた長い髪。
無地のTシャツに、茶色いエプロン。
出会うといつも「大丈夫?困ったらいつでも声かけてね」と言ってくださる。
わたしの大好きな、ご近所さんのひとりだ。
少しだけ離れたところにある友人の家には、長男と同い年の男の子がいる。
庭先にはいつも虫とりアミが転がり、夏場はよくプールが干してあった。
お母さんとお父さんもアクティブな人たちなので、家族で川遊びに行ったあとのサンダルが並んで乾かされている。
それを見るたび、「ウチもどこかに連れていかなきゃなあ」と、対抗心や焦りがわく。
来客も多い。
ワイワイと賑やかなリビングの様子が、カーテンの向こうから伝わってくる。
周りの家をしげしげと観察するなんて、なんだか失礼だろうか。
でも、しかたない。
それしか、やることがないのだ。
今、家の前に駐車した車の中から、出ることができない。
後ろのチャイルドシートでは、次男がすぴすぴ眠っている。
もうまもなく、起きるはず。
だから、のんびり待っている。
本を読んだり、空を見たり、うちの玄関横の木にカメムシが止まっているのがイヤすぎて、目を背けたりしながら、待っている。
うちは、ろくに手入れもしないので、植え込みの木は伸び伸びだし、玄関先には昨日したシャボン玉のフタが転がったままだ。
水遊びで使ったホースも、伸ばしっぱなし。
やれやれ。
そういうのを片付けないとなあ、と思っているとき、ふと、お隣やお向かいの家の周りを、じっくり眺めてしまったのだった。
そしてそこに、「生活」を見た。
どのお家も、ピカピカで新しく、洗練されたデザインだけど。
そこには、たしかに「暮らし」があった。
それがいい。
なんだか、すごく安心する。
次男が、モゾモゾと動き出した。
わたしは、運転席から降りて、次男を抱えて、玄関に向かう。
よく寝たねえ、と言う。
次男はぼんやりした目で、隣のお家の庭を見ている。
ふと、お向かいの家の犬の声がする。
「わんわん」と、次男が呟く。
わたしの家のまわりは、今日も平和だ。
鍵をあけて、ドアを開き、次男とともにゆっくりと中へ。
後ろでドアが、ガチャリと閉まった。