「なんもしない」を過ごす日和
『レンタルなんもしない人の”やっぱり”なんもしなかった話』を読んでいる。
この本、たいへん失礼なことなのだが、「頭が空っぽ」になれていい。
この本はたぶん、ボリューム2だ。
たしか昔、ボリューム1も読んだとおもう。
そのときも、同じ感想を持ったはずだ。
なんも考えずに読める。
なんて「軽い」本なんだ。
「レンタルなんもしない人」さんは、昔ネットでは話題になった方だと思うので、ご存じの方も多いと思うが。
一応説明をすると、「飲み食いと、簡単な受け答え以外、なんもできかねます」という人だ。
「なんもしない人(僕)」を貸し出す。
それが「レンタルなんもしない人」。
はじめて知ったときは、衝撃だった。
「怪しすぎる。需要あるか?」というのが初手の感想だった。
でも、本で依頼内容を読むと、「なるほど、そういうときにレンタルされるのね」と納得。
「なんもしない」というのがポイントで、人数合わせ、行きづらい場所への同行者など、なんでも頼める上に、余計なことを何もしてこないのがいいようだ。
まさに、「そこにいるだけ」の存在。
友達でも知り合いでもない、そこにいるだけの「他人」。
その存在に、価値があるのだ。
本では、依頼内容と活動が淡々と紹介されていくだけなのだが、クスリと笑えておもしろい。
どの依頼にも、何ひとつ深く言及されない。その浅い感じがいい。
そのなかでも目につく依頼は、「だれにも言えないことをただ聞いてほしい」という内容だ。
特に、育児中の主婦が「自分がどんな人間だったか思い出せなくなっているので、とりとめもない自分の話をただ聞いてほしい」という依頼は、共感できた。
母親になり、子どもたちのことばかり考えて生きていると、「あれ、わたしって一体何者なんだろう」と思うことが多々ある。
わたしって、何が好きだったっけ。
何をすると、楽しいんだっけ。
というか、人と話すって、何をどうするんだったっけ。
冗談抜きで、こんな思考になる。
自己の消失。
ママ友同士で会話はするも、どうしても「子ども」の話が中心になるし、夫はあまりに近すぎて、本音をさらけ出しにくい。
ほかに話せる人もいないまま、月日は流れ、ふと自分のことが分からないことに気づき、愕然とする。
だから、「なんもしない人」に話す。
なんも返ってこないから。
それが安心なのだ。
私は今、「レンタルなんもしない人」をレンタルしてまで、話を聞いてほしいとは思っていないが、依頼者の気持ちはすごくよく分かる。
もし、わたしがレンタルしたら、やっぱり自分のどうでもいい話を聞いてもらったり、誰かに言いづらい愚痴や正直な気持ちを、つらつらと吐き出させてもらったりするかもしれない。
そして、ひとりでは入りにくい焼き肉屋かなんかに行って、黙々と食べて、一人カラオケについてきてもらって、適当に解散する。
うーん、いいな。
しないけど。
レンタルさんは、たぶん今後も利用しない。
でも、ふと、わたしにとって、そんなレンタルさん的な役割を果たしてくれているのは、「note」かもしれないな、と思った。
誰にも言えないこと、言うほどではないこと、話しにくいことを、「note」に書く。
それは、レンタルさんに話を聞いて欲しい依頼者と、近い気持ちなんじゃないだろうか。
だとしたら、私は「note」に出会えてよかったなと思う。
「note」に書くことで、気持ちを整理したり、振り返ったり、自分を取り戻したりできるようになったのだから。
ソファーに寝転び、なんにも深く考えず、本を読みながら、「note」のありがたさをかみしめる。
今日は、「頭空っぽ」の日だ。
レンタルさんへの依頼を目で追いながら、彼を真似して、「なんもしない」時間を、全身で感じてみた。
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