#008_本当にどうにもならないことは確かにあって、それ以外はなんとかなるということ
くそ!
まだ、北陸地方の地震が続いている。
しかも、昨日は生まれ故郷がピンポイントで大きく揺れた。
一体何に許しを乞えば、地震はおさまるのだろうか?
生来の気の小ささゆえ、
いろいろと策を講じて、無理難題をどうにかごまかしながら
なんとかしてきた。
自分が起こしたトラブルの現場から
トンズラこいたことも一度や二度じゃないが
なんとかなった。
昨秋、退職代行を使い突然出社せず、
会社の面々に多大なる迷惑をかけたが
自分がいなくなったくらいで会社は潰れやしない。
(本音はマジで潰れてほしいが)
残った人間たちがなんとかしてしまう。
(社長をはじめとする幹部が無能極まりないからタカが知れているが)
とにかく、人の生き死ににかかわることでなければ、
会社とか仕事のことなどはなんとかなるものだ。
しかし、一週間以上頻発する地震を止めることはできない。
なんとかならないこと、どうにもならないことは確実にあるのだ。
この無力感はとてつもなく大きい。
会社でのことなど、些末なことだと改めてわかった。
奴らは相手にする価値もないほど、どうでもいい存在だった。
少なくとも大惨事が起こった時に、頭に浮かぶことがない人たちだった。
なのになぜ、自分はそんなバカな輩に復讐したい気持ちを抱いていたのだろう。
なんなら、今でも僅かだが復讐心は残っている。
どうでもいい奴らじゃないか。
無能極まりないくせに、無駄に偉そうにして、
しまいには俺にあらゆる責任を押し付けて、
責任の一端を背負うどころか、知らん顔でふんぞり返っている。
そんな正真正銘のクソッタレ集団なぞ、
相手をしたり意識するだけでも無駄で無意味なのに。
そんなにも悔しかったのか、俺。
奴らにではなく、自分の実家に地震が直撃したことが
さらにその悔しさを増幅させたのか?
やはり、自分はあまりにも、あまりにも小さい人間だ。
生き直したい。
今を、すぐ目の前の未来を大事に生きる人間になりたい。
50代で無職になったことは、
悲劇でも喜劇でもなく、生き直すための機会だったのかもしれない。
さて、どうやって復讐心をなだめすかし、
あのバカどもをできるだけ記憶から消し去り、
忘却の彼方に近づけられるか。
もう少し、自分の器の小ささを深掘りしてみる。
あの会社の近年の右肩急降下の業績から予測するに、
そして、営業マンの低脳ぶりを鑑みるに、
また、社内にはびこる旧態依然とした体制と
昭和から継承している数々のハラスメント言動から
放っておいても、確実に近い将来潰れると思う。
なのに、どうにも自分が小さい人間だと思うのは
自分をこんな目に遭わせた奴らがのほほんと生活しているのを
本気で腹立たしいと思い、その思いに支配されようとしていること。
水は低きに流れる。
きっと自分はどんどん低きに流れている。
微塵も意味がないことがわかっているのに
低きに流れることを止められない自分いる。
なぜ、生まれ故郷が地震に見舞われ、
バカ丸出しのあいつらは平気に生きているのか・・・。
結局、そんなことを考えている50代の自分が
醜いと感じると同時に、ちょっとだけ愛おしくもあったりするから
わけがわからなくなる。
数は少ないかもしれないが
どうにもならないことは確実にあって、
それ以外のほとんどのことはどうにかなる。
どうにもならないことから生まれる理不尽があることは百億も承知しているのに、
全然飲み込めていない自分が
人間としての小ささなのだと思う。
さて、こんなクソ野郎な自分と
これからどうやって折り合いをつけて生きていこうか。
まずは、つまらないとわかっていながら
燻り続けている復讐心をどうなだめ、
できるだけ早く灰にできるかだな。
あぁ、今年こそ奴らが地獄に・・・と思っている自分から
早く脱却したいよぉ。
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