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note停滞期

毎日noteを書くと決心した日から、まあまあ続けてきていたけど、最近停滞期に入ってきた。

自分が書きたいものや得意分野は分かってきたが、自分が書いたものを見返してみると、書く時の思いが結構熱くないと書けないものが多い気がしている。

なんかもっと気の抜けた、友達とする会話みたいに中身のないことを書きたいのだけど、それを読んで面白いのかなとか、目にとめてくれる人はいるのだろうかと、考え込んでしまう。

なので今日は特に熱く語らずにテキトーに書いてみようかと思う。

お母さんと電話をした。
「働ければどこでもいいし、行った学部と共通した職に就いてる人なんてあんまりいないんじゃない?」

世間体を気にする親だから、「大企業に行かないと親不孝なのでは?」「せっかく大学に入ったのだから、大学に行ったからこそ就職できるところに行くべき」という先入観が私の中であった。

アルバイトでも派遣社員でも、社会に貢献しているような責任感のある職じゃなくても、私が元気に働いていればそれでいいんだと分かった瞬間、肩の力が抜けて、じゃあもう本当に自由にしていいんだと心が軽くなった。

「自由」と言っても、子供のころから自分の意思決定は自分でしてきたほうで、それは親があまり干渉してこなかったからだと思う。

なんでもかんでも親の言う通りにしていると、いざ進路を決めるときに自分で意思決定できずに迷ってしまうし、自分の人生じゃなく、人の意思の人生を生きることになる。

「意外と干渉せずに自由にさせてたのが逆に良かったのかもしれないねえ」

子育て期間を振り返る母親の声を聞いていると、もうそんなことも対等に話せる大人になってしまったのか、と少し寂しく感じる。

親にとって子供はいつになっても子供だということを聞くが、それを凄く実感した日があった。

中学生くらいの頃、お盆休みにお父さんの実家へ帰っていた。

おばあちゃんはいつも美味しい揚げ物たちやおはぎ、煮物や刺身をたくさん用意して待ってくれていた。

お父さんが刺身にわさびを付けすぎて、辛さに悶えているとき

「辛かったね?」とにこやかに微笑みながらお父さんを見守るおばあちゃんの顔を見て、「あ。私のお父さんのお母さんなんだ」と思った。

当たり前のことだけど、一緒に生活していると、お父さんは私のお父さんでしかなくて、おばあちゃんの息子ではあるのだけど、「子供」としてのお父さんを見たのは、その日が初めてだった。

家族というものは個体では実現できなくて、代々続いているものなのだなと実感する。

こんな感じでなんの意味もない、タイトルとの関連性が皆無な文を書いてしまったけど、結構書けてしまった。

何事も力みすぎない方がうまくいくのだと気づく。

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