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【掌編小説】月下の弓引き【ファンタジー】

 ヒュウ――。乾いた空気の音だけが耳の中に響く。風が涼やかに頬を撫で、耳の下を駆け抜けてほっそりとした長い髪を巻き上げていく。
 あらわになった耳は笹の葉に似て長く鋭く、それは長身と鼻筋の通った顔立ちよりも雄弁に、彼女が悠久の時を生きる森の人アールブである事を示していた。

 春の夜空はまださむざむとしていて、昼日中の陽気は少しも感じられない。ただ月の明かりだけが照らす平原に、狼が一匹歩いているだけだ。

 白い狼である。かなり大きい。大人一人丸々と飲み込んで、まだ余りある大きさだろう。青白い月光を受けて、銀にきらめくその毛皮は、正しく年経たはぐれ狼である事の証である。

「まったく、姫様には困ったものだ」

 リンと鈴が鳴るような声。静かにこぼれた声は地面にまで届くこともなく、樹上に潜む彼女の口の中で溶けていく。

 ――本当に困ったものだ。心のつぶやきが続く。

 姉の結婚式に、飛び切り綺麗なケープが送りたい、という願望は分からなくはない。森の人々は命のサイクルが長く、それゆえに縁の綱は太い。家族となればなおさらだ。誰かと繋がっていなければ、永い時を生きるには退屈過ぎるからである。
 であれば自然と、情も深くなる。まして永い命の中で一度きりの出来事なのだから、可能な限り良いものにしてあげたいとする、その思いは気高いものである。

 しかし、言い出すのが少し遅かったのは否めない。せめてもう三日早く、という思いは、彼女の耳をピンと張り詰めさせる程度に強いものであった。
 なにせ里一番の狩人、その大看板を背負う彼女――"翡翠の指のミルカ"とて、獲物の選定には時間がかかるのだから。

 此度の狼も、里を抜け出し森を離れ、三日かけて探しぬいた末の獲物である。あと一日遅ければ、結婚式には間に合わなかっただろう。

 寒い風がまたヒュウと吹き抜け、彼女は身を震わせた。深緑の狩人衣装、すらりと長い肢体を包む軽装は、そこまで気温の変化に強い訳ではない。長い耳をゆらりと揺らして彼女は小さく細く息を吐き、そして思考を尖らせる。
 見定める目はまこと遠く、吐く息は全てを網羅せんと言わんばかり。風はその時を待っていたかのように弱まり、やがて止む。そうしてからようやく、彼女はぐいと弓を引いた。

 二人張りのロング・ボウである。銘を"春風貫き"という。折り畳み式とはいえ、森の中を持ち運ぶには苦労する品だが、遠距離狙撃となればこれ以上のものはない。

「……我らが森よ、神なる円環よ。命を奪い、明日の糧と慰めとする我が罪、どうか受け入れたまえ……」

 祈りの一言。つぶられた目は、まるでギリリと顎まで引き絞った弓など意にも介さず、ゆらりと凪いでいる。

「……その対価に、我が弓の冴えを報じます。とくとご照覧あれ」

 そして目が見開かれた。

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