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あなたはあなたのために生きればいい

ゲシュタルトの祈り

『ゲシュタルトの祈り』という文章があります。ドイツの精神医学者で、ゲシュタルト療法の創始者のフレデリック・S・パールズ(1893~1970)が作ったゲシュタルト療法の思想を盛り込んだ詩で、彼はワークショップでこの詩を読み上げることを好んだそうです。

ゲシュタルトの祈り

私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

ゲシュタルトの祈り

私がこの文章を知ったのはもう10年ぐらい前ですが、この文章に出会って気が楽になりました。私は自分の好きなようにしたいわりには、まわりを気にするタイプで、そこに葛藤がありました。「ゲシュタルトの祈り」を読んで、自由に生きていいんだと勇気をもらいました。

ドイツ人は日本人と比べると、わが道を行く個人主義な気がします。少なくとも私が知っているドイツ人は自己主張が強いというか、自分の意見をもっている人が多かったです。それでもこのような言葉が出てくるわけです。
いくら個人主義とは言え、家族や恋愛やその他いろんな人間関係のなかで、人の顔色を伺ったり、依存的になったり、支配的になったりはありますから、自分と人との区切りは大切ですね。

日本は西洋の個人主義とはまた違った関係性の中にいます。今は昔の日本の良さが失せて、空気を読む風土に西洋的な個人主義がゆがんで溶け込み、いびつな人間関係や自我形成を引き起こしている気がします。

この「ゲシュタルトの祈り」の文章のいいところは、あなたはあなた、私は私と、関係性をスパッとクリアに自律させていること。

私は私で、あなたはあなたで、お互い何をしようと自由だし、関わっても関わらなくてももいい。もし何か一緒にすることあればそれもいいだろうし、ないならないでそれもいい、、、と受け止めます。

こんな風に人間関係をすっきりと割り切れるととても楽です。もともとこういうものだと今では思います。心(エゴと言ってもいいでしょう)が妙に発達してしまって余計なことを考えるようになってしまったんでしょうね。

「人への期待」と「人からの期待」は人間関係を重くする


私も以前はまわりを気にしていましたのでストレスが多かったです。またエンパス体質なところもあり、気づかずにまわりの人のエネルギーを感じ取っていました。人と自分の境目がはっきりしてなかったのですね。

そこには「人への期待」と「人からの期待」が混ざり合っていて、「それに応えなければ」、あるいは「応えてくれない」と、思い通りにいかない人間関係に悩んでいたと思います。

期待がないと気楽です。猫がいい例です。
私は猫を飼っていますが、お互いの関係性がとてもいいなあと思っています。子供の頃から動物が好きでしたが、なぜだろう?と思うと、そういう期待のやりとりみたいな重さがありません。
人間同士だと「これをやってくれてあたりまえ」「わかってくれるだろう」「あなたなら…」という気持ちが働きやすいです。こんな風に対応してくれるだろうと期待するから期待が外れると、怒ったり悲しんだり裏切られたと感じたり、相手や自分を責めたりします。
でもそれは相手のことではなく、自分がそのように反応していることが要因となっています。

自分を後回しにするのは美徳か?

とくに女性に多いですが、まわりを気にして、迷惑になるといけないからとか、あの人が望んでいるからとか、自分を後回しにして人のために何かをしようとします。
やりたくてやっているのならいいですが、下記の理由がけっこうありそうです。

・いい人に見られたい、きらわれたくない
・場を乱したくない、争いを避けたい
・私一人が我慢すれば…という自己犠牲的な考え方
・言ってもわかってもらえないから
・みんなに幸せになってほしい など

夫婦関係やカップルで、従順な女性が突然怒り出したり、離婚を言われたりするのは、その女性が我慢に我慢を重ねて耐え切れず爆発してしまうケースです。小出しできればいいですけど、それでもわかってもらえないとなると、ずっと我慢してついに堪忍袋の尾が切れてしまいます。
小出し時点で相手が気づけるといいですが、ため込む人も多いですから、気をつけたいですね。

日本は「個」より「間」の文化だった

日本家屋を見るとよくわかりますが、日本人は関係性を大事にする民族だったと言えます。障子、ふすま、縁側、衝立、屏風、のれんなど場を完全に分けません。
ふすまのようにとりはずし可能であったり、衝立、屏風、のれんなどは部分的に場を区切ります。「ここから先は入ってはいけません」「許可とってください」という結界みたいなものですね。あるいは、のれんなど、チラ見せして入りやすくするケースもあります。
障子は壁とは違い、紙ですし、光を通します。半分通して半分通さない感じ。

完全に独立した空間にしてないのですね。境界があいまいで、その境界は状況に応じて変化させることができます。「あわい」という言葉がありますが、それを大事にしていたのでしょう。

縁側は家の内と外の間にあり、外から来た人はそこでお茶を飲んだり話をしたりします。中には勝手に入れないけど、縁側は気楽に来ていいよっという空間ですね。

内でもない外でもない中間地点での交流

昔、ロンドンの公団住宅にスペイン人の友人と住んでいた頃、一番奥に位置していたこともあり、彼女が外の通路(廊下)にテーブルを出したんですね。カフェが外に椅子とテーブルを置く感じで。
私にその発想はなかったので、「お、さすがスペイン人」と思いました。またイギリス人にもその発想はなかったようで、そこでは誰もそんなことしてませんでした。

若い外国人女性たちが玄関の外にテーブルを出して座ってるので(それも一階)、通行人が話しかけてくるようになって、近所に同年代の知り合いがどんどんできました。縁側の発想に似てますね。

スペイン人と日本人は似ているところがあります。日本に帰国してから、日本人はラテン気質が多いなと思いました。日本人というとまじめで勤勉な印象がありますが、お祭り騒ぎが好きな人は多いようです。昔は祭りや地域でのいろんな催しや集まりも多かったですから、人間関係ももっとあっけらかんとしていてゆるかったと思います。

「私は私のために生きる」と言えないがために、自分を隠す

核家族が増え、家も西洋的な構造になり、縁側もなくなり、祭りも減り、だんだんと人との関わりが減っていき、今はそれにマスクも加わり、建物の壁だけでなく、顔もふさぐようになってしまいました。

「ゲシュタルトの祈り」のように生きていれば、マスクをしたいと思わない
でしょう。「私は私のために生きる」と言いたいけど言えないがために、人と接するのを避け、自分を隠そうとして自分の殻に閉じこもってしまう。

そういう人もいれば、昔よりは自己表現がしやすくなったと個性を発揮する人も増えています。「私は私」と自由に生きる人もいれば、「私は私」になりきれず、
くぐもっていく人もいます。

私は今は一人で過ごす方が好きなので、人のことは言えません。20~30代の頃は常に人といたように思います。内省的な性格もありますが、今は人と集うより自分の時間をすごしている方が楽しいお年頃です。

世の中、友達がたくさんいて、みんなと楽しく過ごしていることが幸せで、孤独は不幸だと見る傾向があります。人と一緒にいるのが好きな人はそれでいいです。けれどもそこにあまり価値を見ない人もいます。

多数がそうだからそれが正しいとは限りません。ひとりの時間や自分の時空間が必要な人が後ろめたく思わず、堂々と孤独になれる環境があるといいですし、自ら納得してほしいですね。そんなこと気にせず我が道を行く人は「ゲシュタルトの祈り」をすでに心得ている人です。

自分を生きている人は人のことをとやかく言わない

「私は私だ」「私は私のために生きる」と言える人は、人に対しても「そのように生きたらいい」と言えます。自分を生きていない人は、人のせいにしたり、「私のことも考えて」と人に依存します。

SNSで名無しで人をディスる人たちがまさにそうですね。自分を生きてないから、人を攻撃して憂さ晴らしをしたり、自分を正当化しようとします。そういう人こそ、この「ゲシュタルトの祈り」を読んでほしいですが、こちらがディスられて終わりそうです。
人のことをとやかく言う人は、まず自分を見直した方がいいです。ということで、私も私を見直します ^^;


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