見出し画像

なぜお釈迦様はそのまま過ぎ去ったのか?

前回の記事『なぜ蜘蛛の糸が切れたのか?』で、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の話が出ましたが、今日の記事はそれより少し前に書いていたものです。

芥川龍之介の短編『蜘蛛の糸』。
私はこの短編が好きですが、昔からずっと気になっていたことがあります。
物語の最後のほうで、蜘蛛の糸が切れて、カンダタが血の池の底に沈んだのを見て、お釈迦様は悲しそうな顔をなさりながら、またぶらぶらとお歩きになり始めました、とあります。

一度は蜘蛛の糸をたらして助けようとしたのに、今度はそのまま去っていくのか、、、

下は地獄で、上は極楽。
地獄で何が起ころうと極楽は極楽なのです。

それが子供心になんとなく引っかかっていました。
お釈迦様なのに何もせず放置するんだみたいな疑問だったのかもしれまん。

抽象度が違うと見える世界が違います。
このお釈迦様の行動は、地獄側から見ると人非人に見えます。

罪人だからと見捨ててもいいのか?
自分が平安なら他はどうでもいいのか?

天上人は気まぐれだ。修羅のことなどどうでもいい。
所詮住んでいる世界が違うのだ。

という非難や不平不満が出るでしょう。

もう少し冷めた見方をするなら、
カンダタが落ちたのは自業自得だ。因果応報だ。
自分が蒔いた種だからお釈迦様は関係ない。
手を差し伸べるほうが間違っている。

縁起のなせることだからいたしかたない。
本人が変わらないならどうすることもできない。

など、一見、冷ややかな対応が考えられます。
まるで人ごとのようです。

「助けたい」と思うのはエゴのしわざという視点に立つと違う世界が見えてきます。

どれが正しいかというより、どれもその人の立ち位置から見れば正しいことであり、違う視点から見ればそうでなかったりします。

地獄から見れば、お釈迦様は罪人を見捨てた、となりますが、もっと高い視点から見れば、お釈迦様は、地獄をそのまま放置しても平安な心でいられるという境地に至っていると言うこともできます。

ここで気をつけたいのはその含蓄の深さです。
ただの素通りであれば無関心です。

ではなくて、どうにかして助けられないか、なぜ地獄があるのか?といろいろ悩んで考えて試して行動した挙句に、何もしないことを選んだのであれば、含みが全然違います。

すべてを包摂して「すべてはあるがままに」という考えに達したのと、「地獄?私には関係ないよ」と無関心なのとでは全然違うわけです。

清濁併わせ呑むと言いますが、一つの境地に達した結果が「なにもしない」ことであれば、その質が全然違います。

お釈迦様が何を思って、あるいは作者の芥川龍之介が何を言いたかったかは知りません。

このお釈迦様は、マリーアントワネットの「パンがないならケーキを食べたら?」という環境と価値観の違いを表す逸話のように、実は、地獄なんて自分には関係ないと思っているのかもしれません。

目の前のことだけで判断しているか、世界をくまなく網羅しての選択か。

自分がどの立ち位置にいるか、どこまでを含んで判断しているかで見える状況や行動が変わります。だからこそ、自分ならどうするか?と考えて、自分なりの答えを出すことが大事です。

自分で考えて答えを出すことを避けていると、いずれ思考停止してしまいます。そして長いものに巻かれて、「私が決めたんじゃないのよ」「みんな、そうだから」と言い逃れします。

けれども、決めようとしなかったのは自分だ、と心のどこかでわかっているので、罪悪感は感じてしまいます。その罪悪感に向き合いたくないと思うと、相手が悪いって言いたくなります。

ややこしいですね、心って。もっとすっきりシンプルがいいです。
とはいえ、思考停止でシンプルになるのと、縁起のネットワークを一周するぐらいしてシンプルになるのとでは、含んでいるものがまったく違います。
後者のシンプルさは美しいと言えます。

この地球で肉体を持つということは、そういう面倒くさいことを考えたり体験して自分と宇宙を成長させるためと言えます。

正しい答えが大事なのではなく、それについて思考することが大事ではないでしょうか? 言い換えれば、なにかに疑問を持って、その答えを自分で探す姿勢。自分なりの答えを見つけることが大事です。

正しいとか絶対はないですし、決めたことが変わってもいいです。どちらがいい悪いではなく、どちら側にも立てる視点を持っておきたいです。

お釈迦様はこういう思いで立ち去ったのだろう。
カンダタが落ちたのはこういう理由からだろう。
と自分なりに考察したうえで、「私はこうあることを選ぶ」と決めたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?