生も死もあってない世界
私たちはなぜ死を恐れるのか?
私たちが最も恐れることの一つに死があります。
なぜ恐れるのか?
それはその先を知らないからです。
死んでも意識はあるのか? すべて消滅するのか?
自分だけが消えるのか? 世界は残るのか?
今、私たちは、肉体の死を死ととらえています。動いていた人、会話ができていた人が動かなくなり、肉体の生命機能が絶えます。肉体は放置すれば腐乱するので、今の日本では火葬にします。肉体がなくなれば、物理的にその人はいなくなりますから、会うことも話をすることもできなくなります。つまり永遠の別れです。
しかしもしこれが「肉体が死ぬと意識も消える」という認識に基づいたものであるとしたら? 生きている側が「死んだ、もういない」と認識するがゆえに、死者は生者の世界から消滅するだけだとしたら?
想像が強力になれば、創造される
生者と死者は違う位相にいるだけで、ラジオの周波数が合わないと聞こえないように、周波数のズレで干渉しあえないだけだという考えがあります。
幽霊のことを言いたいわけではなく、神々や精霊、神霊、神獣、妖怪と言われる存在について、私は今までは、エネルギー場や想念を、観る側がわかりやすいように具体的なものに変えて認識しているのだと思っていました。
目に見えない「何か」に名前をつけたり、存在を認めり、カタチを与えた時点で、それは人の認識、人の創造物として存在し始め、場が生じます。
それらの想像物が創造の域にまで”煮詰まった”、つまり実在するほどにエネルギーが強まる(情報が満たされる)か、私たちの意識レベルがそれを知覚できる状態になると、私たちにはあたかもそれらが実在するかのように感じられます。
そういう場の形成は必ずしも人の意識によるとは限りませんが、人はそれに名と機能を与え、顕在化させることができます。
生も死も超えた世界
もっと先の話ですが、人類が進化して、物質次元をベースとした意識から波動レベルの意識になった時(情報が先にあって物理が生まれるという順序が一般的になった時)、時間の概念もまるっきり変わるでしょう。
物質の世界だと、「生じる(誕生)」と「消滅(死)」が対になっています。
生き物は生まれ、死にます。人間もです。
将来的にはテクノロジーの発達で、死なない身体になり得ますし、もっと先に行くと、肉体が必要でなくなっていくでしょう。
私たち一人一人は「自分」という情報体(場)です。
個体ではなく情報レベルで対応できるようになると、時間も行き来できます。
時間も幻想です。過去も未来も情報としてありますから、どの時空へもアクセスできます。
情報レベルで考えると、過去の人、亡くなった人に会うこともできるし、想像し得る未来に行くことも可能になります。
先ほど書いたように、私たちは物理的な生命機能停止を死と呼びます。意識がなくなり、機能しなくなった肉体を「死体」と呼びます。生前にあった意識がどうなったかわからないので、それ以後のことは生きている人にはわからない領域です。
臨死体験や神秘体験をしたことのある人たちは、私たちが普段の意識で過ごしている世界以外の世界があると体感しています。ただしそれは物理空間にあるわけではありません。
肉体がないままで、次の生を歩む
自我意識の消滅は個人の消滅となります。自分を認識できなくなれば、一人の人という意識はなくなります。
大海に混ざる一滴の水のように、自我意識は全体に溶け込んで眠っている状態となると仮定しましょう。存在するけど認識できないので、存在しないと同義になります。しかし発現する可能性を秘めています。
もし一滴の水のまま自分を保持し続けるのであれば、個としての認識は残るので、自我意識は健在です。地縛霊や怨霊は不運な意味でのそれですが、自由な存在として自我意識が残るのなら、肉体がないままで次の生を歩むことができます。
個人の意識は一つのゲシュタルト
故人や異世界の住人に出会うのは、無限に作り出されるタイムライン、あるいは情報場の一つにアクセスしているからです。
過去や未来に行っているわけではなく、「今」の話になります。今の自分が、無限に広がる「現在」「過去」「未来」「異界」につながります。しかし「今の自分」さえ刹那的な幻想です。
それができるようになると、死はあってないようなもの。肉体の死はあっても、その人の意識体(意識場)が残るとしたら、その意識体の情報が完全に離散しない限りはその情報にアクセスできます。
「その人の情報」とはその人を成しているものなので、その情報にアクセスして、
その人と会うことを意図すれば、会うこともできるでしょう。けど、亡くなった人にそういう認識なければ、一方通行のアクセスとなり、やりとりをすることは難しいのではないでしょうか。
それさえも自分の意識によって織りなされている夢だと思えば、虚しさを感じることもあるかもしれません。
あちらの世界とこちらの世界を行き来する
現在のこちらの世界の常識は「亡くなった人とは会えない」というものです。
死とは肉体の消滅に過ぎず、意識は残っているからいつでもやり取りできるという常識に変われば、みんな普通に亡くなった人とコミュニケーションを楽しむのではないかと思います。
生きている間にその認識を得てしまえば、あちらの世界からこちらの世界へ、こちらの世界からあちらの世界とのやりとりもそう難しいことではないのではないでしょうか? それができないのは私たちの認識が肉体レベルに執着し過ぎているせいだと思います。
いずれ存在も時間も自在になるんでしょうね。
もともとこの世界は幻想ですしね。
(2017年に書いたブログ記事を少し修正しました。最近似たことを考えていたのですが、そんな前に記事にしていたとは! pb170301)