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幽玄な世界に想いを馳せる

私は、昔から「幽玄な世界」への憧れがあります。しかしこの記事を書くまで、漢字は「幽幻」だと思ってました ^^;

能で表現されるように、こちらの世界と異界とのはざまの、あいまいでゆらいでいる時空間のように思ってましたので、「幽」と「幻」と勘違いしてたわけです。

が、実際は「玄」でした。デジタル大辞泉を見ると、

げん【玄】
1 赤または黄を含む黒色。
2 老荘思想で説く哲理。空間・時間を超越し、天地万象の根源となるもの。
3 微妙で奥深いこと。深遠なおもむき。

とあります。
「幻」は、goo辞書によると『実際にはないのに、あるように見えるもの。また、まもなく消えるはかないもののたとえ。幻影。』とあります。「幽玄」は幻ではなく、奥深すぎて見えにくいと言えます。見えにくいと言っても実際に目に見えるものとは限りませんが。
下記記事を読んで、幽玄とはもっと奥ゆかしくて抽象度が高いんだなと思いました。

幽玄は「神秘的な深み」という風に通常翻訳される。幽玄とは言葉の意味には表れず、また、目には定かに見えなくても、その奥に人間が感じることが可能な美を意味する。「今、そこにある姿」の美しさだけを楽しむのではなく、そこに「隠された姿」の美しさを想像することで、感動に深みを与える美意識である。たとえば、花を見て「美しい」と思う。それは「今、そこにある美しい姿」である。美しい花にはいままで風や雨や雪などに耐えたという過去があり、そして、どんなに美しく咲こうともいつかは枯れていくという未来がある。美しい花はそれだけで感動を与えるが、そうした現在の姿の裏側にある過去と未来に見えるものに思いを馳せるとき、その美しさは「今、そこにある姿」を超えた感動を手にすることができる。

見えない”含み”を読み取る、行間を読む、間合いを読む、空気を読む、縁起を見る、以心伝心、もののあはれ、など、日本では目の前に見えるそのものズバリだけでなく、そこに含まれる情報も感じ取る感性に長けていました。

天と地の間にある諸々のモノ

これは日本の風土や自然によるところが大きいと思います。前にも書きましたが、湿気がそれに大きな影響を与えていると私は思っています。なぜなら、からりと乾燥した土地では、空間はなにもない空っぽに感じられます。
砂漠地帯になると、照りつく太陽と何もない地面に立つ自分という構造を強く感じます。これは絶対神を生み出すのに適した風土です。夜になるとキラキラ満天の星ですから、また違う思想が生まれそうですが、やはり天と地にいる自分という構造は同じです。

日本は森が多いので、天と自分の間にもろもろのエネルギーがうごめているのを感じます。そのうえ湿気が多く、天地の間に無数の”なにか”があるように感じます。意識、生命、知性、エネルギー、想念、水分、微生物、いろんなものが漂っていそうです。空間がなにかを含んでいるのですね。ラフカディオ・ハーンはそれを「サムシング・グレイト(何か偉大なるもの」と表現しました。
自然が豊かで、水も豊富で、四季もバラエティに富んでいます。そういう風土ですから、八百万の神やアニミズム的なものが生まれても当然と言えます。

そういうものを感知して情緒豊かな感性が育まれました。平安時代などは今と違って、自然も空間も闇も広がっていたでしょうから、今とは比べ物にならないくらい無意識世界への扉が開いていたと思われます。

「幽玄」に話を戻します。上記に載せた引用を読んで思いました。
昔は、目の前に見える情報から感じ取れる”含み”の部分をキャッチする力がかなり鍛えられていたんだろうなと。
言ってみれば、目の前にいる人を見て、その人が生まれて死ぬまでを想像できるようなもんです。そういう想像は幽玄とは言えませんが、受け取る情報量の幅がそれぐらい広いです。

祝福も悲哀も含め、そのものを通して、人生やこの世に起こりうることすべてを想像し、受け入れて、そこに美しさを見る。

この世の無常を受け入れたのちに美しさを見るところが幽玄たる所以かもしれません。とても抽象度の高い視点です。見た目の外側の美しさではなく、朽ちていく未来をも見て、だからこそ美しいと思える心。
それはひねくれていて不健全だとも言えるし、本質を見抜いているからこそ言えることだとも言えます。悪く言えば「目の前の美人も死体になったらウジがわくのだ」と想像するようなもんですから。なかなかそこに美は見れません。

生から死までの全プロセスを経て、美を見る

余談ですが、私は家で生ゴミコンポストや腐葉土を作っています。生ゴミや葉が朽ちて微生物に分解され、良い土になったときは、土がとてもいい感じで、そのプロセスが神聖にさえ感じます。腐敗の時は地獄絵図っぽいです。

日本神話で、黄泉の国に行ったイザナミの朽ちた姿を見て、イザナギが恐れおののいて地上に逃げ出し、黄泉比良坂に岩を置いて封印するシーンがあります。それまでの世界は、生きている者と黄泉の世界の者(死んだ者)との境界が曖昧でしたが、これにより別世界に分けられました。

死体が朽ちていく様は気持ちのいいものではありませんが、それを不吉なものとして邪悪視するのもどうかと思います。その過程を経て、別なものに再生するという自然界のプロセスは決して醜いものでも忌むべきものでもなく、全体を見れば美しいことではないかと思います。
イザナミとイザナギの話は象徴的に、死や死体は悪いもの、忌むものとされた流れが見えてきます。体温あたたかく生きていた肉体が硬く冷たくなり、腐敗する様はそこだけ切り取ると地獄絵図に見えますが、最後まで観察すると土に還り、そこから草の芽が生えて、、という構造が見えてきます。
話を戻して、幽玄の世界では、そういうものもひっくるめたのちに美として昇華された状態が表現されているのかなと思います。

神秘的な深みに気づいて、美しいと思える心

能を見ていると、その構造がセラピーを思い起こさせます。ストーリーは、旅の僧が思い残しのある霊に出会い、その無念を静かに聞き、霊は成仏していくという話が多いです。僧はただそばにいるだけなのですが、そのおかげで霊は積年の思いを打ち明けることができ、情念を晴らします。そうして情報の書き換えが行われ、成仏していきます。

先ほどと同じサイトの「もののあはれ」の記事には、

「もののあはれ」とは対象に本来備わっている特徴の中に含まれる神秘的な何かに気づく事によって、我々の心に自動的に生まれ来る様々な感情の事である。(能動的に感じるものではなく受動的に感じるものである。) ・・・(略)この対象物の神秘的な何かに気づき、自動的に生じる感情を知る事が出来る心こそが美しいと日本人は考えたのである。物に神秘的な何かがあらかじめ遍在しているという考え方は、万物に神が宿ると考えた日本人ならではの発想である。

神秘的な深みに気づいて、美しいと思える心。これは抽象度が高くないとできません。善悪や醜美、正負などにとらわれていると、どちらかでないと良くないと思ってしまいます。
それを超えてもっと高い視点から見た時に見えてくること。本質的なことはそちらのほうにあります。

私が幽玄に惹かれるのは「神秘的な深み」に見える美しさへの憧れなのでしょうか? 善悪や醜美、正負などを超えていますから、こちらの世界から見ると、混沌としていてあいまいで揺らいでいる世界です。
安定したこちら側の物理世界に慣れていると、得体が知れず、怖いと感じるでしょう。しかしそれを受け入れ、そこに美を見た時、それは幽玄となり、私たちの前に姿を現します。

目の前のことに忙しすぎる現代人

現代人は目の前に見えることにとらわれすぎています。自然に接しなくなったことやインターネットの普及が大きく影響しています。とくにインターネットは、目の前に見える情報のみで判断しやすいです。スコトーマ(心理的盲点)が生まれやすいと言えますが、そもそも私たちが体験している現実からしてスコトーマだらけなので、インターネットに限られたことではないですね。記事を書いた人の裏意図を探るなどはあるでしょうが、フェイク記事やあおり記事が多いのがわかっていても、つい目の前に来た情報を信じてしまいがちになります。

”含み”を感じ取れない、読み取れないということは、勘も感性も鈍っているということになります。抽象度が低いため、目の前の記事や出来事を信じて思考停止してしまいます。
また逆に、ふわふわスピリチュアルのように、あいまいに包みすぎてよくわからない状態のまま、雰囲気にのまれて信じ込んでしまうこともおきます。これは自己満足の世界に陥ってしまいがちなので気をつけたいですね。

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