思考のかけら
Twitter(新X)に呟き損ねた文。人のことを安易に「天才」などと形容したくはないし本物の天才なんて存在しているのか?と懐疑的に思っているけれど、ここではあえて「天才」と形容したい。と思って書いた記憶がある。
見えている世界が違うんだな、と感じた。
世界に対する感度がものすごく高い人を、私は無条件に尊敬する。それを言葉にできる人は、無条件に好きになる。始発を鼓動と形容して、そのまま朝起きて生活を始めるその様子を墓場から復活する神に例えた彼、マジで何食って生きてんだろう。
己が凡であることを知っている。怠惰故、秀才にもなれない。だが、天才の天才性をきちんと掬える自信はある。嘘かも。そこまで鋭敏な感覚を持った人間じゃない。
感受性が乏しいな、とよく思う。相対的にも、主観的にも。相対的に言語化能力が高かっただけの幼少期、感受性が豊かな子だと誉めそやされた。その褒めは間違っていると当時からずっと思っていたが、なぜそれが的外れなのかを一言で説明できるようになったのはまだ最近な気がする。
本当の自分、なんてものは存在しないと常日頃から思っているし、その人の口から語り得ないその人自身のことは知るべきではないと考えている。自分に見せてくれているその人の側面がその人の全てで、「本当のあなた」なんてものは国語の問題文のように全てそこに現れているものだ。
「本当のこいつを知ってるのは俺だけ」の「こいつ」な人生だった。実はこういう側面があるんだよねこの子、と言われるたびに薄膜が張られていく。それは次第に壁となって、いつしか仮面になる。コントロール不能な中身の一部だったものが、コントロール可能な創作キャラクターになっていく。
掴めない人だ、とも言われる。とはいえこれ以上見せられるものはないし、そう言われるたびに申し訳ない気持ちになる。商品を買ったのに、お代が払えないような。手持ちがないんです、と素直に言っても、相手は「そんなこと言っちゃって」「お代は今度でいいよ」と商品を手渡してくれる。待てども待てども、本当に私はそれ以上払えないのに。
薄っぺらい人間だと自己を評するしかないが、それが転じて深い人間だと勘違いされる。ただ、過度に理屈っぽいのに感情のコントロールが不十分な、幼い人間なのに。
執着心がなさすぎる、と評され、ほんとか〜??と疑っていたら本当でした。過去の自分が「執着」という言葉は使わずともそういう傾向があるとはっきりそう言っていた。(懲りない理由にて)
自分のことをかなり把握できていたはずが、意外と歪んだ根幹に関するところでは盲点になって掴めていないところが多い。悔しい。でも考える余地があるっていうのはちょっと嬉しい。
執着心が無さすぎる、というと生きやすそうな感じがする。ただ、誰のことを失っても傷つくことができないというその事実に痛めつけられてばかりだ。
嫌われて平気でいられるわけではない。好きになることもあるし、人を愛すこともある。ただ、いざそれを失ってみても何も思えない。結局、自分の中で愛は飽きに勝てない。
形あるものに終わりはあるから、と何かを失う度そう言い聞かせた。
大切なものほど大事にするのに、大切な人ほど雑に扱うのはなぜだ。
そして失った後に大切だったと気づくのはなぜだ。だったら失う前に、丁寧に扱えばよかったじゃないか。雑に扱っていいのは、失ってもいいと思えるものだけじゃないのか。だから私は物持ちが悪く、人持ちがいい。
でも、それは執着にはなり得ない。
友達はほとんどいない。でも親友はたくさんいる。これを読んで、私は友人側かな、と思っているなら安心して欲しい。あなたは私の親友です。そこに一切の例外は無い。
親友をひとときも傷つけたくないと思っている。大切にしたいが故に私は自分から話しかけられない。不用意に傷つけてしまいたくない。そういう関わり方をしているから、私の周りにはきちんと「親友」としての距離感で接してくれる人ばかりだ。
「本当に私のこと好き?」と思わせてしまう時がよくある。そうしてあなたを傷つけてしまう。傷つきながら、人と人とは関係を深めていく。でも、傷つくのは私だけでいいじゃないか。あなたが理不尽に、私で傷つくことないじゃないか。
どうか私に構わないでくれと思う一方で、あなたが私を知りたいと思うのならあなたの質問全てに真摯に答える準備は出来ている。
人は案外他人に興味がない、とはよく言うが、第一印象で苦手と思わせてしまうことも、声が、顔が気持ち悪いと思わせてしまうことも他者を不快にさせることに変わりはないのだから、私は今日も人の奥底に足を踏み入れることができないままでいる。
恋人、となると話が変わってくる。強制的に自分を暴かれる。身体的にも、精神的にも。それに耐えきれない。自他の境界線が掻き回されて、どれが自分でどれがペルソナでどれが不快でどれが快なのかが分からなくなる。あなたの幸せは私の幸せにはなり得るが、私の幸せはあなたの幸せになり得ているだろうか。そればかり気になって、そうでいなければならないという強迫的な思いがただ恋人と一緒にいるだけで湧き上がる。ただ苦しい。
そうしていつしか、あなたの幸せが私の幸せになり得なくなる。
以上
思考のかけらたちでした。
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