優しさというフェティシズム
待って、と声を掛けたらちゃんと待ってくれる優しさ。
そんなこと言う前に気づいてくれ、なんてのは傲慢だと思う。ただ、きちんと「待って」「合わせて」と言えばきちんと待って、合わせてくれる様子は素晴らしい。それでもうまく合わせられなくて歩き方がぎこちなくなってしまうと、こちらも合わせようと思う。そうしてリズムが合っていく、それまでの過程が楽しい。
相手に言葉を譲る優しさ。
大体人は語りたがりなもので、隠したいものは誰だって持っているのに、それ以外の場所は知って欲しくてたまらない。それを抑えて、思いついた言葉を一度飲み込んで、話を相手に譲って楽しそうに聴いているその態度が愛おしい。
それでもブレーキが効かなくなって、面白い話をしようと一生懸命喋るその姿勢に、もっとあなたの話を聞いていたいと思ってしまう。
人が大きな音を鳴らしてしまった時に、すぐにそっちを向かない優しさ。
動的な色気が好きなのかもしれない。それは優しさと違う余裕のようなものだけれど、それはそれとして余裕のなさゆえに口数が多くなってしまうそんな様子も好ましい。同性異性関係なく、そういう人が好きだ。
上に例として上げた優しさのかけらは、特定個人を指すものではない。誰からもらったかも覚えていない、もしかしたら夢の中でもらったのかもしれないことを、ゆっくり思い出しながら言語化してみた。
こういう、誰でも当たり前にできなければいけないようで、案外できていないような優しさが好きだ。そういうものに囲まれて過ごしたいからそうなれるよう振る舞っているつもりだが、全く私はこんな人になれていない。
第一、こういう人はnoteでひたすら自分の感情を書いたりしないし、「実家の居心地悪ぃ〜!」なんてツイートで共感を得ようとしないし、己の怠惰を笑ってもらわなければ正気を保てないような精神状態に無い。
精神が安定している人と生涯をともにしたい、結婚願望とはまた違う願望があるのだけれど、そのためにはまず自分がブレない強さを持たなければならないのだと思うと、そんな願望はどうしようもなく夢でしか無いということに絶望を覚える――絶望、なんて軽々しく使うべきじゃないけれど。
優しさを渇望している。
諦念に裏付けられた楽観的思考、破滅的思考が治らない。
諦めなくていいと、自分を大事にしなさいと言われてもどうしようもできない。
だが、あなた自身は諦めていてもいいけれど、私はあなたのことを諦めないと、そう教えてくれる人を愛している。それは優しさとは違う都合のいい「理解のある彼くん」みたいなものかもしれないけれど、受け入れて欲しいわけではなくて、そういう人もいるんだと、遠くで想っていて欲しいという祈り。
悲しいな。
1121文字も言い訳をしないと、優しさを享受できない。
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