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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #16「モクさんと恩田木工」

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モクさんの自宅を訪れて初めて、モクさんの本名は「宮原惣一郎」というのだ、と若葉は知った。

惣一郎の自宅は、古い分譲マンションの三階にある。母親が遺した小さな2LDKを改修し、業務仕様の調理場を持つ1LDKにして住んでいる。

インテリアはオフホワイトを基調としたモノトーンで統一され、無駄なものが一切ない。まるで修道院のようだと若葉は思う。そういえば、惣一郎が身につける衣服もほぼモノトーンで、装飾が一切ない。

リビングには、大きな書棚が壁一面に設えられている。多様なジャンルの文庫本に単行本、新書、実用書、美術館の展示図録や写真集、百科事典などが、小さな図書館のように整然と並んでいる。

「すごい量の本。難しそうなんも、ようけある。モクさんはほんまに本が好きやのね。」

「…学がないからな。自分で勉強するしかない。」

「宮原惣一郎、っていう名前やのに、なんで『モク』って呼び名にしたの?」

惣一郎は黙って書棚へ歩み寄り、一冊の古い文庫本を取り出して若葉に手渡した。

「オンダ、モッコウ…?」

「…木工と書いてモクと読む。」

そう言って、背表紙を見せる。『真田騒動 恩田木工』。その横には、確かに「おんだもく」と振り仮名が打ってある。惣一郎はその文庫本を若葉から取り上げ、本棚に戻そうとしたが、若葉は慌てて取り返し、大事そうに胸に押し当てた。

「あたしも読んでみる。なんでモクさんが『モク』って名前を選んだんか知りたいから。」

惣一郎は軽く驚いた。自分の内面に興味を持ってくれる人間を見るのは、初めてだ。

自宅に着くと早速、惣一郎は普段着の上に白いエプロンを巻きつけ、業務用冷蔵庫から取り出した食材を、アイランド型の大きな調理台に並べ始めた。

先程まで無造作に下ろしていた長い前髪を、いつの間にか後ろに撫でつけている。ここで若葉は、惣一郎が髪を綺麗に撫でつけるのは、料理やお酒に髪の毛を落とさないためなのだ、と気づき、自分も気を付けよう、と気を引き締める。

初日はひとまず、若葉は御用聞きに徹することにした。着物の上から割烹着をつけて調理場に立ち、惣一郎の指示に従って雑用をこなす。作業の流れを邪魔しないように、余計なことをしないように。帰宅後、惣一郎の作業手順を思い出しながらノートにメモし、自分がやるべき作業を考える。

夕食を作る惣一郎を、隣で見学する。出汁や煮汁を小皿に取り分けて味見させてもらう。帰宅後、出汁の取り方、調味料を入れるタイミングを思い出しながらメモし、惣一郎から借りた料理本を見ながら復習する。

ダイニングテーブルで、惣一郎と向かい合って食事をする時が、若葉は一番緊張する。想像通り惣一郎は、箸の上げ下ろしから皿上の後始末まで、全てが美しい。若葉は箸使いこそ予習してきたものの、魚の姿焼きを前にフリーズしてしまう。そして、身の外し方、骨の外し方、懐紙の扱い方を、惣一郎から徹底指導される。

初日の夕食後、惣一郎は書棚からテーブルマナーの教本と茶事の教本を取り出し、黙って若葉に差し出した。若葉は顔から火が出そうなほど恥ずかしく、小さな声で「ありがとう」と呟いて受け取った。その日から若葉は、箸と魚と懐紙を相手に格闘し続けている。



初日に若葉を自宅まで送り届けた帰り道、乗るつもりだったクロスバイクを押して歩きながら、惣一郎はぼんやりと考える。

…今日みたいに誰かと和やかな夕食を取ったことが、過去にあっただろうか。
死んだ父親のことは覚えていない。母親は、俺が七歳のときに新地の女になって、それ以降、俺は朝食も夕食も基本的に独りぼっちだった。
母親が休みの日には、実の父親ではない男が家に出入りして、俺の居場所はどこにもなかった。中学に入り、俺が暴力的になってからは、なおさら一家団らんなんてものとは無縁になった。

どうして俺は、こんなに凶暴になってしまったのだろう。育った環境のせいでも、父親がいないせいでもない。俺と同じような生まれ育ちでも、真っ当に生きている人間の方が圧倒的に大多数だ。

十代の頃は、本当に苦しかった。一体どこで自分が爆発するのかが、まるでわからない。自分の衝動を全く制御できず、我に返った時には、手あたり次第に破壊している。事件を起こすたびに、母親は俺から離れていき、俺はひたすら暴走し続けた。

高校一年の時、つまらない理由で人を殺しかけた。俺は死ぬまでこんな事件を繰り返すのかと、自分の人生に絶望した。それ以降、人を殺してしまう夢にうなされてはパニック発作を起こし、真っ暗な夜道を独りぼっちでフラフラとさまよった。

恩田木工の小説を読んで、心から憧れた。俺もこんな風に、強い信念と克己心を持てればいいのに。長く厳しい時期を耐え抜いて、大事を成せる男になれればいいのに。温かく寛容な人間になって、周囲と仲良く助け合って生きていければいいのに、と。

社会に出てからは、周囲の支えのおかげで、大きな問題を起こさずに済んでいる。でも、左頬の傷を鏡で見るたびに、心が冷え冷えとする。きっと俺は、一生、恩田木工には追いつけない。ずっと自分の凶暴性に怯えながら、息を殺して生きていくのだろう。

それにしても、最近の若葉の成長には、本当に驚かされる。あいつがあそこまで努力家だとは全く思っていなかった。

店を再開するとき、ママのイメージを引き継いで欲しくて、着物を着させた。常連客を引き留めるためでもあったし、若葉の成長を促すためでもあったし、俺自身が着物好きだというのもあった。
勿論、若葉にも気に入って欲しいと思ってはいたが、まさか、あそこまで気に入ってくれるとは思っていなかった。

お稽古事もそうだ。一通りの礼儀作法を身につければ、接客に役立つだろう。そう思って茶道を勧めたが、若葉はいつの間にか、自分の意思で華道にも挑戦している。
しかも毎回、自分で着物を着付けて通っているという。以前は万事に消極的だったのに、どこからそんなモチベーションが湧いてきたのだろうか。

一番の想定外は、若葉がすっかり俺に懐いていることだ。以前は、泥酔している時以外、俺を怖がって近寄らなかったのに、いつの間にか、俺の周りをウロチョロするようになっている。

なぜだろう。泥酔している時にあやしてやったことを、今頃になって思い出しているのだろうか。お姫様抱っこがそんなに嬉しかったのだろうか。あるいは、あの『雪国』が気に入ったのだろうか。

折角の定休日にもわざわざ店にやってきて、熱心に質問してくる。ちょっと親切にしてやると、嬉しそうに飛び跳ねる。あれだけやる気を見せてくれると、こちらとしても、教え甲斐がある。

俺たちは、いつの間にか、父娘のような、兄妹のような、師弟のような、不思議な関係になっている。

若葉はオレの左頬の傷を、どのように見ているのだろうか。


続く

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