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【創作大賞2024オールカテゴリ部門】たそがれ #02

前回のお話はこちら》


三日前のこと。
後輩が担当する韓国ブランドのショップ開店を十日後に控え、クライアント企業の社長が、大学生のご令嬢を連れて視察にやってきた。
ショップの内装を見るなり、令嬢は「私のイメージと違う」と強くごね始めた。日本初上陸の旗艦店とあって、万事抜かりなく進めてきたつもりだったのに、最終局面での卓袱台返しだ。
クライアント側の担当者は慌ててとりなしたが、先々は自分がこのブランドを牽引するつもりになっている令嬢は、一歩も引かない。開店日時はすでにプレスリリースされているのに、だ。

助けて下さい、と後輩に泣きつかれた瑠奈は、無下に断ることができなかった。自分が困ったとき、彼はいつも嫌な顔ひとつせずに手伝ってくれているのだ。
 
ごめん、後輩のプロジェクトが火を噴いてるから大阪に行けない
 
圭太にことわりのラインを一本打つと、瑠奈は急いで現場に向かった。圭太からの返事は、その三十分後に届いた。「わかった。」というだけの素っ気ないものだった。その素っ気なさが気がかりではあったが、とにかく現場の火を消すのが最優先だ。

瑠奈は後輩とともにクライアント企業へ乗り込むと、得意の交渉術と語学力で令嬢の心をゆっくりと解きほぐし、変更範囲を最小限に抑えた。
施工会社の担当者が優秀だったのも幸いした。令嬢の無茶な要望を丁寧に分解して図面に落とし、無理と思われた人員調達と資材調達をクリアして、令嬢にモックアップを確認してもらう。
連日連夜の尽力が功を奏し、想定より二日早く鎮火の目途が立ったので、瑠奈はあとのことを後輩に任せ、現場から東京駅まで直行すると、徹夜明けの身体を始発の新幹線に乗せた。それが今朝のことだ。
 
とにかく一刻も早く圭太に会って、ディナーをキャンセルしたことを謝りたかった。新幹線の中から圭太に何度かラインを送ったが、既読がつかない。休日の朝だから、まだ寝ているのだろうか。

はやる気持ちで新幹線を降り、タクシーで圭太のマンションへ向かう。エレベーターで三階に上がり、合鍵でドアを開け、靴を脱ごうとしたところで、はっと息を飲んだ。
狭い玄関には圭太の革靴と、女物のニーハイブーツが脱ぎ捨ててあり、目を上げると、短い廊下にコートやらジャケットやらが点々と落ちている。奥の部屋からは誰かの声がする。

瑠奈は静かにドアを閉め、スリッポンをゆっくり脱ぐと、音を立てずに廊下を進んだ。そうして瑠奈は、圭太と他の女が乳繰り合っている場面に遭遇したのだった。
 
三十二歳の誕生日に、素敵なレストランでプロポーズしてくれるものと、瑠奈は勝手に解釈していた。一人で浮かれて、ワンピースも新調した。色は、かつて圭太が「とても似合う」とほめてくれたパステルグリーンだ。少しでも自分を美しく見せるデザインを求めて、たくさん取り寄せ、たくさん試着した。それに合う華奢なピンヒールとクラッチバッグも。

ああ、なんて馬鹿なんだろう。圭太には大阪に女がいて、二股をかけられていたのだ。一体いつから…?全く疑いもしなかった。
信じられないという気持ちと、信じたくないという気持ちと、目に焼きついた二人の痴態とが、瑠奈の中でハレーションを起こしている。瑠奈は深くため息をつき、きつく閉じていた目をゆっくり開いた。
 


ところで今、彼女の視界の片隅で、サラリーマン風の中年男性が、不自然に体を揺すっている。新大阪駅で、瑠奈の後から乗り込んできた男だ。
新大阪駅発の新幹線だから空席は幾らでもあるのに、男はわざわざ瑠奈が座るツーシートの隣席に腰を降ろすと、手に持っていたスポーツ新聞を大きく広げた。

しばらくはそのまま、何事もなく過ぎた。だが、名古屋駅を過ぎた頃から、男の行動が怪しくなってきた。やたらと咳払いをするので、瑠奈がさりげなく男の方を見やると、スポーツ新聞の下で自分の下半身をまさぐっている。

そして瑠奈と目が合うと、カマキリのような顔をゆがませてニヤリと笑い、体をわざとらしく大きく揺すりながら、はあはあと喘ぎ始めた。それから約十五分、男は依然として行為をやめようとしないまま、現在に至る。

瑠奈は自分の頭上の棚にあるキャリーケースを見上げた。中には、ノートパソコンとタブレット、工事関連の紙ファイルが数冊、そして、圭太に見せるつもりだったパステルグリーンのワンピースと、華奢なピンヒールが入っている。

いつもの瑠奈なら、こういう変質者に遭遇した場合、顔色ひとつ変えずに立上り、迷うことなく「この人、痴漢です」と叫ぶ。そして周辺の乗客に対し「誰も助けてくれないのなら、非常ブザーを押しますよ」と脅して騒ぎ立てる。
にわかに注目を浴びた変質者は、あわてふためいて車両から去っていく。すると瑠奈は、何事もなかったように自席に戻り、ゆっくりとカフェラテをすする。それくらいのことは何の感情も波立たせることなくやってのけることができる、いつもの瑠奈なら。

だが、今日はダメだ。理性的に振る舞う自信がない。少しでも身じろげば、自分の中からどす黒い感情が噴き出して、頭上のこの重いキャリーケースを、変態男の脳天めがけて振り下ろしそうだ。
…ああ、今日は本当に、悪夢のような日だ。昨日は誕生日だったというのに。本当なら今頃、圭太と幸せな時間を過ごしていたはずなのに。…いいや、それは違う。自分の知らないところで圭太に裏切られていたのだから。

逆上しそうになる自分を抑えるため、瑠奈は再び、目をきつく閉じた。

続く

前回のお話はこちら》


『たそがれ』を読んで下さり、誠にありがとうございます!
よろしければ、『早春賦』も是非ご高覧下さい。


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