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24-05 モノ増えビトの特徴

みなさん、こんにちは。「部屋から始まるミニマリスト」のJOWNです。

今回は「モノが増える人の特徴」についてお話ししようと思います。

ミニマリズム生活を始めた当初、ミニマリスト界隈で有名な「佐々木 典士」氏の著書『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』を読んでいました。当初はミニマリストの概要を表面的に知る感じで読み進めていたので、あまり内容が定着していませんでした。

しかし、もう一度読み直そうと思って昨日再度読みはじめたのですが、僕がnoteに書いた内容と近しい考察や心情が書かれ、共感できる部分が増える感覚があり、驚きと感動を覚えました。読み直しって大切ですね。

そこで今回は本の内容を踏まえて、僕の記事も絡めつつ改めてモノが増えてしまう人を考察してみようかと思います。この記事を読むことで、モノが増える心配を少なくできるかもしれません。

「価値がある」と認められたい。

佐々木氏は著書の中で、人間は他者や社会に価値があると認められなければ社会的に生きることができないとしています。

つまり、社会では誰しもある種の承認欲求の塊であるということです。社会の中でも「いいね」が欲しいんですね。

これをモノが増える人にあてはめると、手っ取り早くぱっと見ればわかりやすい「モノを所有する」という形を取ることで社会的な価値を得ようとします。内面を理解してもらうには時間がかかりますから。

佐々木氏は読んでいない本がたくさんある本棚に関しての体験を、次のように語っています。

「ぼくは今までこれぐらいたくさんの本を読んできたよ。本棚を見てもらえばわかる通り、興味はあらゆる方面に幅広く、好奇心が旺盛な人間。これも、あれも知ってるよ、名前だけはね。読んだことはない。けど興味はあるんだ、こうして持っているんだからね。理解はしてないにしろ、難しい本も読んできたよ。一見何の変哲もなく、あまりしゃべらないほくだけど、実は知的で深い人間なのかもしれないね」

読んだ本を血肉として使いこなしていなかったのに、本を増やし続けていた。ぼくは自分の価値を、置いてある本の量で示そうとしていた。ついには読んでもない本まで「自分自身」だと思い込んでいたのだ。実際にはほとんどの本は自分に必要なモノではなかった。

引用 : 『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』

重要なのは自分の価値が本棚に侵食されているという点です。

「24-01 マキャベリズム的断捨離」でも述べましたが、モノのリーダーとして生活するという姿勢を持つことに深みを増した文章だと感じました。

モノは人間とは違います。話しかけても返事はなく、会話になりません。にも関わらず、一方的に遠回しに僕たちに働きかけます場所を取り、窮屈にし、まるで居候のような振る舞いをします。それを放置せず、そのモノに価値があろうとなかろうと厳格に管理する必要があります。

「作る」から「使う」への傾倒。

佐々木氏は、人間には「孤独アプリ」がプリインストールされているとも述べています。孤独を感じると、「社会とつながりなさい」とアラームが発生するという仕組みです。

みなさんも悩みや不安を抱えた時、一人では解決できない問題に遭遇した時、きっと誰かに相談をするようなことがあったと思います。

野生に放り出されると個としては明らかに弱い生物である人間は、社会という集団とのつながりにより困難を克服できるよう仕組まれています

一人で解決したつもりでも、おそらく現代を生きる僕たちは様々なサービスやモノ、情報を駆使して解決していることでしょう。これは自然界でのサバイバルとは程遠い、明らかに社会的構造の産物を頼って解決しているに過ぎないと言えます。

つまるところ、独力で解決したものではなくあくまで社会性に頼っていた部分を用いて解決できているということです。社会性に頼るということは、人が作り出したモノを活用して解決することもまた同様です。

ゆえに現代を生きる我々は必要な時に道具を作る側ではなく、他者が作った道具を「使う」側が圧倒的に多いです。そして今はモノが売買や譲渡で簡単に入りやすい環境でありかつ、我々がモノをうまく使いこなせていません

適切なシーンとタイミングの選択、使用頻度、愛着や責任などを安易に見誤る社会に変化していることを、深く理解する必要があると思います。「身の程をわきまえる」と言う言葉がありますが、自分に必要かどうか・使い方をそもそも知っているのか・知ろうとする気があるのかを問わねばなりません。

「差異的消費」というモノ地獄。

「差異的消費」という言葉があります。

フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールの言葉で、人間は周りとの「差異」をつけるために消費活動するという意味です。個人的な欲求を超えて他者との関係性を据えた社会的な欲求によって起こるのだとしています。

ボードリヤールの解釈を踏まえれば、自己実現は主体的な願望や欲求を持って行動する高次かつ自発的な理由で成就するのではなく、自己と他者との隔たり「差異」を生むという外発的な理由で成就します

モノを持つこと=不便なく裕福であるという認識をしばしば持ちがちですが、それはあくまで価値観の問題です。もっと人間の根源的な部分、社会性を持つ人間だからこそ、モノを所有することが社会的な成功に導いてくれる錯覚に陥っているといえます。

こう考えると、我々が自分たらしめる他者との差異の確立ゲームは永久に続きます。自己実現という言葉の裏では、モノが少しずつ増えてしまうのも必然だと考えられます。

さいごに : 「社会性」に飲まれない。

ここまでの内容を振り返ると、社会性に振り回されている人間がモノを増やしやすいという印象を受けるかと思います。

しかしそれは振り回されているだけで、まずは自己をコントロールすることができれば社会とちょうどいい距離感で生活ができるでしょう。

僕の結論は、あらゆるモノや情報が溢れた社会だからこそ「持たないこと」もこれから先価値のある差異だと捉えて行動したらいい、に尽きます。

ミニマリストはモノがないことの利便性の実感もそうですが、彼ら自身も常識に揺さぶりをかけられたからこそ、今増えてきているのは間違いないことです。

僕たち人間が社会的な生き物である以上、上に書いたことを避けるために社会を抜け出すのは至難の業です。社会に頼ること自体も全く悪いことではなく、単に社会にも二面性があるということだけです。何事もそうですよね。

社会性に飲まれないように、今一度自身のモノの増え方を見直してみるのがよいかもしれません。

無料の試供品をなんとなく受け取っていないか。
限定価格やタイムセールを見て必死になって買うモノを探していないか。
押し付けられるように他者からモノが譲られたりしていないか。
誰よりもそのブランドのパイオニアを目指そうとしていないか。

思い当たる部分を変えることができれば、少しずつ社会活動や経済活動に飲まれることがなくなると思います。大切なのは、社会に同調するようにモノが増えてないかを確認することです。

ちなみに僕は、無料のティッシュ配りは絶対受け取りません。

その場でまず必要ではないこと、他人からもらうものを絶対使い切ろうと思うことができないこと、カバンの中でいずれぐしゃぐしゃになること。このことを自分でよく理解している。だから断る時も悩まず、罪悪感もありません。

今回の記事はここまで。最後まで読んでいただきありがとうございました。

それでは、また。

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