「嫌われる」という言葉そのものに仕組まれている罠。主体を隠し相手を責める巧妙なシステム

嫌われるという言葉、多くの人が一番に恐れている言葉だよね。

この短い言葉には、その人を責める巧妙な仕組みがある。

それを解説しよう。

普通、動詞って、その動く人が主体になるように表現される。

動く、書く、歩く、寝る、焼く、、 とかね。んで文の都合とかで特別な場合だけ、

動かされる、書かれる、歩かされる、とか受け身表現を使う。


ところが。ところがですよ。

ごく一部の単語、概念で、デフォルトで受け身が使われている単語がある。

それが、冒頭の「嫌われる」とか「いじめられる」「愛されない」とかなんですな。

なぜか、人を最大限貶める場合の単語って、受け身がデフォルトなんですよ。。

それはなぜか? 

答えは非常に簡単。

「嫌う」「いじめる」「愛さない」だと、明らかにするほうが悪く感じるでしょ?

嫌われたりいじめられたりされるほうが誰か?とかどうしてか?なんてことには注目がいかず、行為の主体のほうに誰か?どうしてか?と注目がいく。悪い注目が。

それをたった受け身にするだけで、不思議といじめる側の注目が外れ、いじめられる側に好奇の悪い注目が集まるようになる。

いじめをよくする人間や、人を嫌うことで他人を操作しようとする人間は目ざとく鼻が利き、自らの存在を消し、得体の知れない大勢にお前は「いじめられ」「嫌われている」のだという状況を演出することに長けている。

言葉というのはたったそれだけ、シンプルで種も仕掛けもないように感じる中に巧妙なトリックがあり、だからこそ気づかれない仕組みがあるということ。

そして、そんな単純な仕組みに気づかず、いつまでも流通している言葉が「いじめられる」だの「嫌われる」「愛されない」だのという受身形がデフォで日本語が流通していること自体が、いじめ体質と村八分体質の何よりの証拠だということだ。

明日からその受け身形を取って、「いじめる」「嫌う」という言葉をデフォルトにするだけで、これらの問題は90%解決するだろう。

気づいて 手放す 気づかせて 手放させる 簡単だろ?

これを見たやつは今日いますぐからやれよな。





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