条件をつける人は幸せになれず、材料にする人は幸せになれる。

材料と条件は違う。

人はしばしば何らかの行為の際、自らの内面に潜む醜い条件を隠す(無自覚でいる)ために、社会のルールやモラルや普通を押し通そうとする。

社会にある様々な役割や関係性や、なんでもいいけど名前のついた何かを求めるとき、それを材料にする人はそれらと軽やかに付き合えるし、幸せにも繋げられる。

一方、それを条件にする人は幸せになれない。

仕事、役職、恋愛、結婚、家族、なんでも同じ。

ある役割や関係性を「やってみたい」と感じるのは健全な精神の働きだ。

「~~してみたい」「~~してみない?」「~~になってみない?」「一緒に~~しない?」「あなたは~~をやってくれない?」「私とあなたは~~でありたいな」「~~でなくてもいいんだけどね」

これらの表現がされるとき、その人はとても健全な状態だ。そこには言葉以前に双方の信頼と関係性の良さがある。だからこそ、提案とか希望という形で軽やかにそれを表明しても、それらを材料として楽しめる関係でいられる。


一方、ある役割や関係性を「でなければならない」「でなければ幸せになれない」「あなたは~~であるべきだ」「私とあなたは~~であるべきだ」「~~でなければ悪いのはあなたである」と表現する人間がいる。

このいずれも、病的かつ依存的な発想である。そこには、強制的な縛りなしでは相手との関係性を維持さえできない、ごまかしと臆病さと嘘がある。そこにパラドックスがあることさえ自覚できないのだ。いや、自覚しないがために、社会に予めある義務や形式に嵌るのである。嵌っていればとりあえず正当化できるからだ。

これらの発言が限定的に必要とされる局面は、それが双方の意思がきちんと反映された約束があった場合に、最小限の期間、最小限の縛りにおいてなされた場合だけである。(仕事上の契約など)

しかしながら、これらの発言をする人は多くの場合、約束も必然性もなしに、すきあらば、自らに都合の良い一般常識等を持ち出し、一方的にこういった発想・発言をする。

それが通用する相手と費い寄せ合うように付き合い、いつもギスギスしたり不安や嫉妬やトラブルを抱えている。

そして、それらが病的であることを自覚しようともせず、なぜそれがいけないのか?くらいの勢いで「常に特定の(弱くて当たりやすい)誰かのせいに」していることが多い。

それが通用しなくなり、相手がいなくなるとまた同じ形式で他の誰かを探して同じような関係性を繰り返す。

このような病的な構造が普通とされていた時代が長らくあった。

いまだに、この話をしてもピンとこない人間が、おそらく半数以上いるのではないか?

社会に存在する問題の多くは、枝葉末節なんかより、こういった大本の認識が変わることが必要なんだけどね。


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