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勝負事の必要性 ー心の不発弾

俺は 人をみるときに なんらかの勝負事(スポーツ系・頭脳系問わず)をしているかを確認する。

なぜ確認するかといえば、「争い」とか「攻撃性」とか について、どれくらいの造詣があるかを知るためだ。

今もしているのであれば、何をどのようにしているのか?

過去にしていたのであれば、いつどうしてやめ、どうけじめをつけたのか?


勝負事全般から逃げるような感じが出ている人は、高確率で、「争い」とか「攻撃性」に関してなんらかの精神的な、不発弾の地雷が多数ある。

そして不発弾は、「人間関係」の中で、弱い者や、無抵抗な他人や、無防備な相手に対して、理不尽に爆発するのである。

自分が弱い側であればあるほど、弱い者を探すのが難しくなり、今度は執着関係(恋愛・家族・友達など)の泥沼に引き込んで、離れないことを入念に確認してから、不発弾を起動させるのである。

それらはすべて「ずるい無意識」によって起こされるため、本人に自覚がないことが多い。


彼らはまた、爽やかな「喧嘩」ができない。

彼らにとって、「指摘」や「忠告」や人によっては「アドバイス」までもが、「攻撃」に感じる。

攻撃されたことへの対応で頭が一杯いっぱいになり、相手の状態や意図を感じるどころか、話の内容も入らない。

彼らは、他人のそれらに怯えているように思っているが、自らの内に秘めた不発弾の「うずき」に何より怯えているのである。

不発弾が相手によって不意に爆発し、収集がつかない醜態をさらすことを。

なので、彼らは歪んだ「家庭」を作ったり、歪んだ「恋人関係」を築き上げ、その安心と保証、いや泥沼の中で、自分に都合の良い形で不発弾を爆発させたがっており、そういう行動を日々しているのである。


さて、心の不発弾にも様々あるのだが、その中でも「攻撃性」というのは、比較的浅いところにあるものである。

多くの場合は 「悲しみ」の手前に、解像度の荒い「攻撃性」があり、それを覆い隠している。

悲しみの保護として攻撃性の話は、この記事では補足程度にしておく。


他人に影響力を与えようとする攻撃性や、役割コミュニケーションとして攻撃性、自己実現というか存在アピールとしての攻撃性などがあるが、

それらは、他人や世界に攻撃性をぶつけて返ってくる、一連の流れを体験することで、磨かれていくものだ。

それを、最も純粋な形で体験できるのが、「勝負事」だ。

特に一対一の勝負事で、不公平感のないもの、言い換えれば、結果がすべて自分のせいだと思えるもの、ほど優れている。

反対に、多数対多数、不公平感、他者のせいや運のせいだと思う余地のあるものは、その点でいうと純度が低い。

少し脱線すれば、多数対多数のスポーツや、運が絡むものなどは、まず純度の高い勝負事を収めてからやるべきである。

そうでなければ、上手に他人のせいにしたりする悪い癖がつくだけだ。

純度が高い一人ひとりが集まって、協力しあう多人数の勝負事をやって初めて、より素晴らしい体験になる。


純度の高いものの代表格は、将棋、囲碁、格闘技、テニスなどである。

これらを、お互いが望んで勝負をする、というのが最高の形だ。

私がそれらにすごく親しみを感じるのは、結果、特に負けたときに何よりもすっきりと自分のせいにできるから、である。

負けが、自分のせいにしかできない、というのは、最高の教師だ。

負けた惨めさ。試みの浅はかさと身勝手さ。自分の状態の変調。追い詰められて出る癖。諦める弱さ。それを知った後に行動しない自分のおかしさ。

相手が自分と同じようにそれ以上に、物事に臨んでいることの手ごたえ。

自己否定のようでありながら、きちんと道を示してくれる。

結果だけを見て、ただ「負けた」だけで終わるのでは意味がない。

勝負事、特に純粋な勝負事というのは、このように負けに大きな意味をもたらす。


勝負事から逃げる人間は、負けから学ぶことができない。

負けを完全な自己否定と捉え恐怖する。

その反対に、勝てば愚かな全能感を味わう。

己を変えぬまま、勝った全能感だけを求め、自分より弱い勝てる相手を探す。

そういう卑怯な臆病者は、勝負事ではなかなか勝てない。

だから勝負事をやらなくなる。

その代わり、人間関係でそれを、気づかれないように、やる。


今回の話は、特に女性に多い問題である。

この話が分からない人間は、優しさとか平和とか調和といった、勝負と正反対に思える概念に、必ず影が差すことになる。

女性こそ、なんらかの「さわやかな勝負事」を経験したほうがよいだろう。





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