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Kiyo to Kiyo クエスト 第3話 ま~るい社会を目指して

それからしばらくslackでチャットし合う日々が続いていたが、slackだと個々人が共有したい情報を公開するには、チャンネル(テーマによる部屋)を開設する許可を管理人に確認する必要があった。そこに喜代は違和感を感じていたのかもしれない。
 喜代は共有したい動画があるけど、slackだと容量制限があるのか、アップロードできない。テレグラムというSNSだったらアップロードできそうだから、テレグラムも使ってみないかという提案をした。
 
その時の僕は、テレグラムというものを知らなかったし、slackで十分使えていると思っていたから、とくに氣にも止めていなかった。他の人たちも管理人も含め、喜代の提案をスルーしたように思う。
 今にして思えば、喜代はslackで続けていくことの限界を感じていたのかもしれない。というのもslackは管理人を頂点とするピラミッド構造になりやすいから。
 それに比べてテレグラムはアカウントを持つ個々人がチャンネルやグループを自由に開設できるし、招待したい人(アカウント)も選ぶことができるから、個々人が主体になれて、みんなが対等な関係で交流がきると考えていたのかもしれない。喜代はそこまで考えてテレグラムを提案したのかなと、今はそんな氣がしてる。しかも、管理人にも配慮して『slackでは動画が上げられないから』という口実で。(このさりげない氣遣いを自然体でやってしまうのも喜代の凄いところだと思う)
 
そして僕も喜代が提案したテレグラムが何故かわからないけど氣になり出したので、自分でも調べてみた結果、テレグラムも使いやすそうな氣がしてきたから、喜代に確認したうえで僕からも改めて管理人に聞いてみた。
 その後はしばらく、slackとテレグラムを併用しながら交流するようになっていった。
 
その当時はなんとなくテレグラムも慣れてくると使いやすいなぁ程度にしか感じていなかったが、最近になって、slackは管理人に仕切ろうとする思考があると△の支配構造になりやすい、一方でテレグラムはアカウントを持つ個々人がチャンネルやグループを自由に開設できて、個々人が主体になれるから丸い社会を創っていく共同創造の練習にもなるんじゃないかと感じるようになってきた。
 みんなそれぞれ図のような特有の得意分野や才能があって、その才能が重なり合う(協力し合う)ことで丸(丸い社会)に近づいていくんじゃないかと思えてきた。

いろんな才能がある個々人の集まり
その才能を共有して協力することで丸くなるイメージ

でも、丸い社会を創るためには、僕の中に△の思考があったら丸い社会に移行できないし、丸い社会では△の思考は不協和音になって、そこにいられなくなるだろう。だから、丸い社会にふさわしい自分になるために、△の思考の種を手放す必要があった。そのことは僕自身もわかっていたのだが、この手放しがなかなか厄介で大変だった。
 
そのタイミングを予期していたかのように、喜代はガイド(守護さん)を紹介してくれた。
 そしてその守護さんがチャットに『喜代の守護』という旨の自己紹介をした時、そこから去る者と残る者とにはっきり分かれた。
(タイミングが速すぎた人たちや、喜代のことを誤解していたり受け入れられなかった人たちもいたかもしれない)
 
ここから本格的に、僕が自分と向き合い、自分軸、本当の自分を取り戻していく修行が始まったのだが、その時の僕は、「なんで喜代には(話しかけてくれる)守護がいて、僕にはいないんだろう?」っていう疑問や嫉妬もあったし、喜代に対する対抗心や嫉妬心、守護さんに対しても特別視したり認められたいという欲求もあったが、その当時の僕はそういった感情を認めるどころか、反抗期の子供のように反発してたと思う。時には拗ねたり家出(逃亡)したりしたこともあった(汗)
 喜代の守護さんは、そんな僕の対抗心や嫉妬心、よく見られたい・認められたいという欲求がどこから来ているのか、今思えば、僕が“本当の自分”を取り戻すために、僕の内にある手放すべき思考や感情の種にスポットライトを当ててくれたんだと思う。ときには厳しくもあり、おっかなく感じたりしたこともあったが、母親のように愛情を注いだりしてくれることもあった。そして喜代もそっと見守ってくれたり、必要な時にはやさしく語りかけてくれたり、癒してくれたり、家出したときもそっと手を差し伸べてくれた。
 今思うと、『よく見せたい、見られたい』『認められたい、認めてほしい』『人より知ってる』などという思考は、自分に自信がないから大きく見せようとしていたんだなと思う。そして、大きく見せようとしていたということは、“本当の自分”を生きてない、自分を偽って“嘘の自分”を生きていたんだなって思う。結果として、自分に嘘をつく生き方は、僕自身の魂(“本当の自分”の意識)を傷つけることになるということを喜代や喜代の守護さんたちもそのことを伝えてくれていたんだと思う。
 でも、その時の僕は、どこかで“本当の自分”を生きていないんじゃないかと感じながらも、今までの生き方や考え方や常識や知識を手放すこと(自分の殻を破って変化すること)に対して、『自分がいなくなっちゃうんじゃないか』『自分が壊れちゃうんじゃないか』という不安と恐怖も感じていた。だからこそ、その本質的なところを見抜いていた守護さんたちに対して余計に厳しく感じたり、おっかなく感じていたんだと思う。
 
その時感じていた『自分がいなくなっちゃうんじゃないか』『自分が壊れちゃうんじゃないか』という不安と恐怖も、闇の支配者たちによってつくられた“見せかけの恐怖プログラム”だったことが最近になってわかってきた。錯覚のような恐怖を感じさせることで、“本当の自分”に氣づかせない(近づけさせない)ようにしていたんだと思う。
 自分軸(“宇宙創造の源の意識”と繋がる“本当の自分”)で生きる人が増えていくと、闇の支配者が“見せかけの真実(1%の真実に99%の嘘を混ぜるなど)を巧みに操っても、直感的に嘘を見抜かれて、支配・コントロールしにくくなってしまうから。
 喜代もよく言ってることがある。それは『真実を知れば怖くない。』
その真実も、自分軸(“宇宙創造の源の意識”と繋がる“本当の自分”)からくる直感こそが真実を見極める“鍵”になるんじゃないかと。

         ~ つづく ~

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