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道案内とお遣いが似ている話

ここから清水寺までは、この道を真っ直ぐかい?

ひとり旅だろうか、優しそうな外国人観光客が尋ねてきた。

確かに彼が指差す方向は清水寺の方角だった。
ただ、問題は現在地が河原町五条だということ。

歩いていこうと思うと、けっこう遠い。
自分は歩くスピードが速い方だけど、それでも15分くらいはかかる。彼は足が長かったので、早く到着できるかもしれないけど、そんなこと神様しか分からないし、神様もそんな問いに答えてくれるほど暇じゃないだろう。

バスに乗った方がいいとお勧めしようにも、バスの乗り場が思い浮かばない。京都のバスは大学時代乗り回していたけれど、乗り馴れたバス停じゃないと、バス乗り場の位置なんて把握してない。

「この方角であってるよ。ただ、歩いていくと15分か20分くらいはかかるかも」と、ちょっと遠いけど大丈夫?という雰囲気を醸し出しながら答えた。

すると彼はGoogleMapを開き、目的地を入力した。

思った以上に遠い。およそ2キロ、30分という表記もあった。

「Google Mapsは使えるんかい」という頭の中のツッコミは横に置いて、直前に返した答えが少し外れていたことを反省した。

彼は一瞬迷ったそぶりを見せたものの、
「歩くの好きだし歩いてみるよ、ありがとう」
と言い残し、去っていった。

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こういう時、いつも迷ってしまう。
彼は単純に方角が知りたかっただけかもしれない。
行き先が正しいか確認したかったのかもしれない。
実は歩き以外の道を探してたのかもしれない。
彼は足が速いかもしれないけど、ゆっくり歩くかもしれない。

色んな「かもしれない」が頭をよぎるけれど、いちいち全部を確認するわけにもいかなくて、「ちゃんと期待に応えられただろうか」とそわそわする。

このそわそわはなんだろう。
期待に応えられたか分からない不安からくるもの?それとも、彼にとって間違った答えを伝えたかもしれないという焦り?はっきり答えを示せなかった自分への苛立ち?

この感覚は、お遣いを頼まれた時とよく似ている。
「豆腐を買ってきて」と言われても、どのスーパーで、どの種類をどのくらい買ってきたらいいか。いつも迷ってしまう。

相手は何だっていいと思ってるかもしれないけど、でもきっと思い描いているイメージはあるはずで。だから、思い通りじゃなかった時に少しばかり「残念」と思わせてしまうかもしれない。

ただ、もやもやは自分の大切な価値観に気づくヒントでもあるから、もやもやを思い出せてくれた彼にはお礼しないといけないな。

次に道を尋ねられた時は、「この坂道を通ればお店がいっぱいあるから、時間を忘れて歩けるよ」と伝えてあげることにしよう。

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