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【Zatsu】ニホンゴ ムズカシイネ

まじめな話。

翻訳家を目指していたころの思い出について書こうと思う。
日本語に関するいくつかの考察。

あらためて。
むかし翻訳の勉強をしていた時期があります。翻訳者の養成学校みたいな界隈ではそこそこ有名だったトコロ。プロの翻訳家の先生についてゼミ形式でみんなとディスカッションしながら学ぶ形式でした。
大学を卒業したあとも就職せず本気で文芸翻訳家を目指していたおれですが最終的には自分の英語力のたりなさを痛感した。おまけに文芸翻訳家という門戸があまりに狭い。もしかしたら国内で作家デビューするよりも難しいかも。そんなこともあり翻訳家への道は断念しました。それでも数年かけての「やり切った感」はあるので後悔はまったくない。

その翻訳学校で学んだことがある。
英日翻訳の場合は日本語力がとにかく重要なんです。英語力はあって当然なので問題にされない。英語をわかったうえでそれを日本語でどう表現するか。読者は日本人だからね。日本語がダメだと商品価値はないんだ。だから読者が日本語の作品として楽しめるだけのクオリティに仕上げなければならない。誤訳とかは論外なんです。原作者が意図して構築した原文があるのでそれを逸脱した超訳もまた論外。
そんな日本語の運用能力を試される環境で学んだことのひとつがこれ。

文章は目で読めるように

中島らもが同じようなことを言っていた気もする。
文章は視覚的に理解する。裏をかえすと視覚的に理解できる文章というのは言葉がスムーズに流れているんだね。言葉が生きて踊っているというか。
リズムの良い文章はいちいち読まなくても見ただけですっと頭に入ってきて無理なく浸透する。

ひらがなとカタカナと漢字のバランス

この3つもよく言われた。目で読むための前提条件でもある。ひらがなとカタカナの海を泳ぎつつ漢字の小島をわたってゆく。ゴチャゴチャしていてもスカスカでも疲れてしまうので適度なバランスが大切なんだ。

ニュアンス
言葉が持つ裏の意味
コンテクストを活用して行間を読ませろ
語らずに語れ

作者がねらった「感覚」「イメージ」「思考」をいかに読者のなかで自然に再現させるか。使用できる道具は日本語コトバだけ。だから言語を万人共通の普遍的な道具として操れるかどうかが勝負の分かれ目になる。つまりここに巧拙が生まれる。独りよがりは通じない。奇をてらった表現や斬新な展開もいいんだけれど作者が思ったとおりの効果を読者にもたらすことが大前提だからミスリードするようでは意味がない。それを世間では自己満足と呼ぶ(でもおれは前向きにチャレンジと呼びたい😁)。
意図どおりに受け止めてもらうことの難しさだね。言葉なんて伝わらないものだよ。
そうかと思えば単語の選択を少しまちがえただけで想定外のカン違いを誘ったりもする。シチュエーション次第で同じ表現でも含みが変わったりする。これを逆手にとって魔術師のように言葉を操れたらすばらしいね。そして語らずに語る。これが最終奥義。

  • 原作者が日本語のネイティブだったらどういう言葉をつづるだろうか

  • ぼくらの頭のなかの声を読者へ正確に伝えるには言葉をどのようにあやつればいいのだろうか

上段は翻訳家の仕事。翻訳家は原文から意図を汲んだうえで日本語という全く異なる言語世界での表現を考える。
下段はいまの我々の立場。表現したいものがあってどう書けば読者にうまく伝わるだろうかと思慮している。
でもこのふたつは本質的にはまったく同じことを言っている。頭のなかにある概念的な(形而上の)アイディアを言語という非常に不完全なツールを使って読者の頭の中でなるべく意図から外れないように再構築するってことだ(なるほどわからん)。

まずはこの言語をマスターするところからだな。「ひらがな」「カタカナ」「漢字」「ローマ字」に加えて英数字や記号が平気な顔して混入してくるから厄介だ。これを自分の武器として使いこなせるレベルへ引き上げるにはまだまだ修行が必要そうです。

ニホンゴ ムズカシイネ。


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