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【Zatsu】じいちゃん と ばあちゃんの話

うちの母親は鹿児島出身。おれも小学生のころは、夏休みになると毎年のように遊びにいっていた。

いなかの夏休みに都会のような刺激はない。テレビのチャンネル数も少ないし、番組も1週間遅れだったりして、娯楽といえばもってきたマンガを読み返すくらいだったな。そもそも、テレビはずっと甲子園だし。
朝方はまだいいんだ。裏山で採ってきたカブトムシやクワガタを、近所の子どもたちと闘わせているから。完全にぼくなつの世界だね。
それも陽が高くなるともうだめ。闘技場は朝市のように午前中でおひらきとなり、みんな家に逃げ帰って涼むのよ。といってもウチは平屋の日本家屋、クーラーは無かったので、縁側の戸をぜんぶ開け放してゴザに寝転がるか、日陰の家具に身体を密着させる😀。

ばあちゃんはいつも優しくてカラカラ笑っている人だった。
じいちゃんは口数が少なく、男の子が台所に入ると大声で怒るおっかない人だったけれど(だからおれは冷蔵庫の三ツ矢サイダーをくすねるのにいつも苦労した)、それでもぶたれたことはなかったな。

孫が暇そうにしているのを気にしたのか、じいちゃんはたまにおれをバイクの後ろに乗せて市民プールへ連れて行ってくれた。大きな滑り台がたまらなく面白くて、何度やっても飽きない。くたくたになるまで遊んだあと、背中にしがみつきながらバイクで家に戻ってくる。ただそれだけのこと。
おれはそれで大満足だったけど、じいちゃんはどうだったろうか。

中学へ入ると友だちとの時間が増え、それにともない田舎へ足が向くことはなくなった。じいちゃんやばあちゃんを思い出す機会もめっきり減り、母親は定期的に帰省していたものの、一方でおれは正直なところほとんど興味を失っていた。なにより「いま」が忙しかったから。

次に田舎へ行ったのは、じいちゃんが亡くなったとき。
ばあちゃんのほうが長生きしたけれど、やはり数年前に亡くなった。
おれは「じいちゃん」「ばあちゃん」に対して「孫」として接していただけだったから、その姿しか知らない。ましてや先日、母親から聞くまでは、ふたりに若い頃があったことさえ、考えたこともなかった。

じいちゃんは軍人の家系だった。兵隊ではなく将校。でも鹿児島の山間部にある田舎で、決して裕福とはいえない家。
一方、ばあちゃんはお屋敷のお嬢様だった。囲いのある広い敷地から出たことがなく、数名のお手伝いさんが身の回りを世話してくれる生活。
そのふたりが結婚することになった。当時(地域差もあるだろうが)、軍人の家へ嫁ぐのは、これ以上にない名誉なこと。親類縁者が集まってばあちゃんの家からじいちゃんの家まで長い時間かけて練り歩く、というのを本当にやったらしい。
だから、困難も多かっただろうけど、みんなから祝福されて、お国に仕える軍人とその妻というふたりの生活は順調だったはずなんだ。


結婚直後(千葉県の赴任地にて)


――1945年8月15日――
ポツダム宣言を受諾し、戦争が終わった。
日本が、負けた。

軍隊は解散。じいちゃんは職を失い、鹿児島の家に戻ってきた。
世の中の空気が一変し、昨日までの権威が一瞬で失われ、あたらしい価値観が台頭してくる。都市部ほど変化のスピードも振れ幅も劇的だったようだけど、この田舎町とて無関係ではいられなかった。
民主化の波に乗って新しい仕事が生まれ、兵役帰りの男たちのなかには商売を始めるものもいれば、会社勤めに身を投じるものもいた。でも、元職業軍人の再就職はむずかしく、しばらくのあいだまともな仕事に就くことはできなかった(田舎でもともと働き口が少ないということもある)。

しかたなく、じいちゃんは家の畑で野菜を作りはじめた。農家になったのではなく、自給自足のための野菜作り。昼間はやることもなく家でじっとしている。時間だけがすぎていく。
それでも、子どもはまだ小さいし、生活するにはお金がいる――だから、ばあちゃんは仕事へ出るようになった。といっても山間部の田舎のこと、コネのない人間がつける仕事といえば河川の土方仕事くらいしかない。そこに、お嬢様育ちで重たいものなんてほとんど持ったことのない女性が、いかつい男たちに混じってスコップ片手に働いた。朝早くでていき、日が暮れたころに泥だらけ汗だくで帰ってくる。また翌日も早朝に出ていき、夕方に帰ってくる。そんな日々。
ばあちゃんも当然つらいし、じいちゃんも――ね。

やがて、じいちゃんは念願の職を得た。地域の組合の仕事で、青年の人材教育に携わるようになった。
誰かにはっきりそう言ったこともないし、本人の口から聞いたわけでもないけれど、退役してからずっと心の中に思うところがあったんじゃないか、そんな気がする、というのはウチの母の見解。
戦前、戦中と自分の信じてきたことが、ある日あっさり否定された。無責任に空中に投げ出され、称賛の言葉は消え、周りから誰もいなくなり、唯一残った自分の妻は、まさに自分のために苦労しながら身を粉にして働いている。そして、かたや自分は現状を好転できず見ていることしかできないという無力感。
だから教育が大事、とじいちゃんは思ったのかもしれない。「おべんきょう」ではなくて、あたえられたものをアプリオリに受け入れるでもなくて、本質の理解。
反論を許さない社会ではなくて、むしろ反論から始まる社会。
自分で考えて、自分で生み出して、紆余曲折・試行錯誤・軌道修正しながら自分の世界を創っていく能力、かな。

小学生の夏休み、晩ごはんのときは、じいちゃんとばあちゃんはいつも一緒だった。おれのコップにジュースだと偽ってビールを注ぎ、苦い表情をしているおれを見ていたずらっぽく笑っているじいちゃんと、それを見て笑っていたばあちゃん。
苦労した時代のことなんてひとつも漏らさなかったけれど、ふたりのいろんな想いのうえに、いまの自分があるんだと思ったね。
おれも自分の世界を創らなくちゃならない。
じいちゃん、ばあちゃん、ありがとうね。


自宅(鹿児島)の庭先にて


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